日別アーカイブ: 2019年4月10日

表現と翻訳のすばらしさ 「告白」(4) #47

#34の終わりに書いたように、中公文庫版のⅡ巻になると「『好きになれない』が『嫌い』に昇格し」、面白さも半減した。Ⅰは成長小説として読めるが、Ⅱは回心(=カトリック教会への全面的帰依)というゴールに至る「宗教的告白」という性格が前面に出て来る。カトリック信者ならざる身では、アウグスティヌスという「主人公」に最早それほど親身になれないのだ。にもかかわらず、これも前に書いた通り、楽しく読める。多くは、ずば抜けた表現力に裏打ちされた文章の魅力による。前回に続いて、例をあげたい。

アウグスティヌスはマニ教を捨てた後、キリスト教徒としての自覚を確かなものとするが、回心への道のりは捗らない。神に自らをゆだねるべきと思いつつも、欲情にとらわれていた、と語る。「眠れる者よ、さめよ……」と聖書を引いた後、「習慣のもたらす暴力」によって、神に対し答えるすべを知らない自らの状態について、次のように書く(文面が煩わしくなるので、この後しばらく引用前後の「 」を省略する。基本的に、です・ます調の文章が引用文)。

私の答えはただ、「もうすぐ」「まあ、もうすぐ」「ちょっと待って」という、ぐずぐずとした、眠たげなことばだけでした。しかもこの「もうすぐ、もうすぐ」ははてしがなく、「ちょっと待って」はいつまでもひきのばされてゆきました。

上記は、カトリック教会への帰依が遅滞するのを、目覚めた後、起き上がりたくなくて寝床の中でグズグズしている状態にたとえているのだ。卓抜した比喩表現であると共に、だれしも身に覚えのある日常的な葛藤のユーモアあふれる描写でもある。こうした内的な対話の形をとる文章は、他にも登場する。例えば、表面的な身体感覚がどのように内部に入って来るのかについて、アウグスティヌスは次のように書く。 続きを読む