表現と翻訳のすばらしさ 「告白」(4) #47

#34の終わりに書いたように、中公文庫版のⅡ巻になると「『好きになれない』が『嫌い』に昇格し」、面白さも半減した。Ⅰは成長小説として読めるが、Ⅱは回心(=カトリック教会への全面的帰依)というゴールに至る「宗教的告白」という性格が前面に出て来る。カトリック信者ならざる身では、アウグスティヌスという「主人公」に最早それほど親身になれないのだ。にもかかわらず、これも前に書いた通り、楽しく読める。多くは、ずば抜けた表現力に裏打ちされた文章の魅力による。前回に続いて、例をあげたい。

アウグスティヌスはマニ教を捨てた後、キリスト教徒としての自覚を確かなものとするが、回心への道のりは捗らない。神に自らをゆだねるべきと思いつつも、欲情にとらわれていた、と語る。「眠れる者よ、さめよ……」と聖書を引いた後、「習慣のもたらす暴力」によって、神に対し答えるすべを知らない自らの状態について、次のように書く(文面が煩わしくなるので、この後しばらく引用前後の「 」を省略する。基本的に、です・ます調の文章が引用文)。

私の答えはただ、「もうすぐ」「まあ、もうすぐ」「ちょっと待って」という、ぐずぐずとした、眠たげなことばだけでした。しかもこの「もうすぐ、もうすぐ」ははてしがなく、「ちょっと待って」はいつまでもひきのばされてゆきました。

上記は、カトリック教会への帰依が遅滞するのを、目覚めた後、起き上がりたくなくて寝床の中でグズグズしている状態にたとえているのだ。卓抜した比喩表現であると共に、だれしも身に覚えのある日常的な葛藤のユーモアあふれる描写でもある。こうした内的な対話の形をとる文章は、他にも登場する。例えば、表面的な身体感覚がどのように内部に入って来るのかについて、アウグスティヌスは次のように書く。

たしかに目はいいます。「もし色のあるものなら、とりついだのは私たちですよ」。耳はいいます。「もし音のするものなら、通知したのは私たちですよ」。鼻はいいます。「においのするものなら、私たちを通じてはいったのです」。味覚もいいます。「味以外のことは、私にたずねないでください」。触覚はいいます。「物体的な厚みのあるもののほかは、ふれたことがありませんね。ふれたことのないものは、お知らせしませんよ」

何という愛らしさ。信者だったら、アウグスティヌスを好きにならずにいられない? 「告白」の重要な一部である時間論においても(前回の、時の悲しみを忘れさせる作用という文章は、時間論の前奏曲の一部だ)、対話的な書き方がなされて印象深い箇所がある。

ではいったい時間とは何でしょうか。だれも私にたずねないとき、私は知っています。たずねられて説明しようと思うと、知らないのです。

三つの時がある。過去についての現在。現在についての現在、未来についての現在/じっさい、この三つは何か魂のうちにあるものです。魂以外のどこにも見いだすことはできません。過去についての現在とは「記憶」であり、現在についての現在とは「直観」であり、未来についての現在とは「期待」です。

後者の文章は、厳密には「過去、現在、未来という三つの時」があるとは言えない、と常識的な時間認識を否定して述べたものである。アウグスティヌスの時間論(をはじめとする哲学的な問題)についてはここでは立ち入らない。「なぜ面白いのか」を考えるのが目的であって、その解釈や哲学的な議論は関心の対象外だから。しようたって、難しくてできないのでは? という内面の声が聞こえる。その通り。ただし、時間論については超難解というほどではなく、興味深く読めた。

それにしても、引用のために書き写しながら、山田晶氏の翻訳のすばらしさに何度も心打たれる。影響を受けて、書きながらひらがなの使用頻度が高くなったり。翻訳が時代の刻印を帯びて朽ちやすいことはよく知られているが、「告白」山田訳は五十年以上前に刊行されたにもかかわらず、少しも古びていない。もちろん、それは千五百年以上前に書かれたことを殆ど感じさせないアウグスティヌスの文章のおかげでもある。

アウグスティヌスが現代的であるとか、常に新しいとか言いたいのではない。どんな書き手も言語、地域、時代の束縛から逃れられない。にもかかわらず、真に優れた作者は、人間の普遍的な真実をつかみとり、彼らに課された言語、地域、時代の制約の中で、そうした制約を超えて、時には制約などないかのように、表現できる。ただし、このために「告白」山田訳では、特にⅠにおいて、古い書物を読む際に期待する圧倒的な距離感、違和感が生じることは稀である。そこまで一冊の本に求めるのは欲張りなのだろうが。一方、宗教性への距離、違和は幾度となく感じる。

ラテン語原文を読めず、他の和訳や英訳もほんの一部分目を通しただけなので、私が感じる山田訳のすばらしさに、どの程度の蓋然性があるのか正確には分からない。しかし、Ⅲの巻末に付された山田氏の文章や、Ⅰの巻末の松崎一平氏「『告白』山田晶訳をもつということ」を読んで感銘を受けた身としては、信ずるに足るというレベルをはるかに超えた翻訳だと考えている。この二つの文章についても語りたい気持ちがある(付箋もいっぱいつけた)が、先に進もう。