普段話すのは日本語だけれど、読み書きは英語でしかできないという状況を考えてみよう。第二次世界大戦の敗戦後には日本語廃止論を唱える識者がいたし、少なくない旧植民地諸国における現実でもあるわけだから、決して突飛な空想ではない。そこでは、詩や小説であろうと英語で書く以外の選択肢はない。
そんな逆境下でも、文学を志す日本人はきっと出て来るはずだ。英語がよくできる書き手は見事な英語を駆使し、英語圏の知識人に誉められたりするかもしれない。そうした人はたいてい英米育ち、留学経験者だ。一方で海外生活をしたことがなくても、詩や小説を書きたいと思う者も現れるだろう。英語力では見劣りするけれど、書きたい意欲と才能によって言語上の困難を克服し、優れた作家として評価される者も登場するかもしれない。
そうした作家の作品は、内容はともかく英語として変だよねとまま評される。英語を日本語のように使おうとする努力を買ってあげよう、と擁護する理解者がいる一方、「倭臭がする」と嫌な表現を使って見下す人もいる。そうした批評の多くは、英語に堪能な日本人によるものだ。「英語で書かれた日本文学」の読者たいてい日本人なので……。もちろん、これは言語表現を漢文や漢字でするしかなかった奈良時代以前の日本の状況をたとえているのだ。批評は、後世の日本人によるものでもあるが。
国文学者、歌人の佐佐木信綱は「常陸風土記は前にも言った如く文体が所謂対偶俳比(形が整っている)で、文飾に富んだ点で異彩がある」と述べ(『増訂 和歌史の研究』。昭和二年)、他の風土記も「古拙幼稚の中に味がある」という評価をしている。ちなみに佐佐木の元の姓は一般的な佐々木だったが、中国語に「々」の字がないと知って「佐佐木」に改めたのだそうだ(小駒勝美『漢字は日本語である』2008年)。
前回触れた久松潜一は、佐佐木の娘婿なのだが(Wikipedia)、常陸国風土記に関して義父より一歩踏み込んでいる。同風土記を文学性の高さにおいて評価し、書き手に関しても、義父が漢文の素養の高い藤原宇合説に止まっているのに対し、その部下の高橋虫麻呂を実際の執筆者とする論を展開している。義父は、虫麻呂を万葉集中の優れた歌人として極めて高く評価していたのだった。叙事詩人、伝説を歌った歌人、東歌を伝えた歌人として。
佐佐木、久松両氏とも「倭臭」という語を使っている。二人が宇合や虫麻呂を評価するのは、万葉の時代の詩人たちの限界を承知した上で、その漢学の素養の高さを認めていることを示すのだろう。常陸国風土記中、「対偶俳比で、文飾に富」むとして、つまりは漢文学の影響が色濃い部分として、よく例に引かれるのは香島郡の若い男女の悲恋を記した件りである。これについて、前回も触れた三浦祐之氏の論が示唆的なので下に引く(一部略)。
① 古、年少き童子ありき。男を那賀の寒田の郎子と称ひ、女を海上の安是の嬢子と号く。並に形容端正しく、郷里に光華けり。名声を相聞きて、望念を同じくし、自愛む心減せぬ。月を経、日を累ねて、嬥歌の会に、邂逅に相遇へり。時に、郎子、歌ひけらく、
いやぜるの 安是の小松に 木綿垂でて 吾を振り見ゆも 安是子し舞はも
嬢子、報へ歌ひけらく、
潮には 立たむと言へど 汝背の子が 八十島隠り 吾を見さば知りし
すなはち、相語らむと欲ひ、人の知らむことを恐りて、遊びの場より避り、松の下に蔭りて、手を携へ、膝を促け、懐ひを陳べ、憤りを吐く。すでに故き恋の積もれる疹を釈き、また、新たなる歓びの頻りなる咲を起こす。
② 時に、玉の露おく杪の侯、金の風ふく々の節なり。皎々けき佳月の照らす処は、唳く鶴の之く西の洲なり。颯々げる松颸の吟ふ処は、渡る雁の之く東の岵なり。夕は寂寞かにして、巌の泉旧り……(以下略。同工の修辞的な「情景描写」が続く)
③ 偏へに語らひの甘き味に沈れ、頓に夜の開けむことを忘る。俄かにして、鶏鳴き、狗吠えて、天暁け日明らかなり。ここに僮子等、せむすべを知らず。つひに人の見むことを愧ぢて、松の樹と化成れり。(以下略)
三浦氏は①・③と、②の文体が大きく相違していると指摘する。②は四六駢儷体による美文で記されているのに対し、①短歌の「いやぜる」という意味の把握しがたい表現があるなど、①・③は古い伝承の記録である可能性が高いとする。つまり②は、郎子と嬢子の悲恋の伝承を風土記に取り込む際、撰録者によって挿入された文章という推測が成り立つ。三浦氏は、前回触れたように、阿倍秋麻呂、石川難波麻呂のどちらかによるものと考えているようだ。
同じく前回引いた八木毅氏は、常陸国風土記の文章は貴族の文体と庶民の文体が混淆していると述べる。前者は中央貴族による華麗な「純漢文体」、後者は地方豪族出身者による「平板な文体」で、三浦氏の例ではそれぞれ②、①と③に相当することになるだろう。ところで、前回私が常陸国風土記から取り出した三つの文章には、「貴族の文体」で書かれた部分が少ない。かつて風土記について記した頃の私は、こうした議論があることを知らなかった。意識的に「庶民の文体」を選んだわけではなかったのである。次回に続く。