常陸国風土記の複数の書き手  #77

 常陸国風土記は、他国の風土記と比較して、四六駢儷体しろくべんれいたいによる美文を随所に見せ、平板な表現にならない工夫をするなど、相当高度の漢文的教養が必要な文飾修辞を施したもの、と国文学者の秋本吉徳氏は記している(『常陸国風土記 全訳注』講談社学術文庫、2001年より。前々回に書影を示した)。八木毅氏の言う「貴族の文体」であるが、こうした文体論はおおむね同風土記の書き手を探るためのものだった。

 私は常陸国風土記の文章に強い魅力を感じ、「作者」として一人の詩人の姿を見出したいと思った。奈良時代、詩文を書き表す方法は「漢文」以外になく、詩人はそうした技術を修得した「文人」に限られていた。しかし、四六駢儷体を駆使した美文が書けることは、語学力の高さは示しても、詩才を証明しない。常陸国風土記に限らず、元から修辞的な美文が苦手なので、「庶民の文体」の「平板」さは私にとっては欠点ではなかった。

 拙ブログ#74で「たまきはる宇智うちの大野の馬めて朝踏ますらむその草深野」という歌を紹介した際、斎藤茂吉の評釈の一部を省略した。「……」とあるのは「露の一ぱいおいた」で、草深い野を修飾している。歌に草露の描写などない。しかし、並べられた馬たちの脚もとを覆い隠すほど丈の高い草の葉が朝露でいっぱいになっているのを、茂吉はありありと見たのだ。短詩型の力だが、ご存じのように、こうした喚起力を持つのは歌や詩と限らない。

 倭武天皇やまとたけるのすめらみことが清い泉に手をひたす文章について、私の頭の内に生まれた連想を記した(#5)。「森の小径で顔を上げると、濃い青色の空が広がっているのが目に入った。空気は乾燥して熱い。すでに盛夏は過ぎたが、辺りの木々は旺盛に葉を茂らせている。地面は赤茶色く、その表土はひとたび風に舞い上げられれば小さな棘のように人の目を刺すだろう。しかし、いま風はやんでいる。倭武の乗る乗輿のそばに立つ男たちも動かない。その足下を真っ黒い蟻が列をなして這い回っている」

 斎藤茂吉と並べるのは気が引けるが、黒蟻の行列は実際に私の目に見えたのである。こうした喚起力のある文章と、前回引用したような「貴族の文体」である美文による描写は、私には相容れないもののように思える。前回触れたように、常陸国風土記には複数の文体が併存している。こうした相容れない文体で書かれていることからして、同風土記には複数の撰述者がいると考えるべきなのだろう。その際、私としては、四六駢儷体を操った者は誰であっても構わない。知る必要がない。

 私が見つけ出したいのは、常陸国風土記に顕れている真の詩人の正体であり、美文の書き手ではないからだ。ここで、ようやく春日蔵首老かすがのくらのおびとおゆに話を戻すことができる。#72で提示した僧弁基時代の歌「亦打山まつちやま夕越え行きて蘆先いほさき角太河原すみだがはらに獨りかも宿」を思い出してみよう。この歌には、地名を除けばごくわずかのことしか書かれていない。夕方山道を越えて行くと、河原で一人で寝ることになったというだけの内容だ。それなのに、人はここに一人山道を行く旅の苦しさ、独り寝の寂しさを読み取らずにはいられない。

 岩波日本古典文学大系版の万葉集の頭注に「旅に出て安らかな宿がなく独り寝ることは非常な苦しさであった」とある。この歌から、さらに、旅人を包んでいく古代の夜の深さや怖さを感受するのは、私だけではないはずだ。WEBサイト「やまとうた」の水垣久氏によれば、この歌には下記のような派生歌があるのだそうだ。こうした歌が生まれたのは、その喚起力の強さ故ではないだろうか?

 都人たのめぬものをまつち山夕こえかねて独りかも寝ん(藤原有家)
 誰にかもやどりをとはんまつち山夕こえゆけば逢ふ人もなし(藤原定宗[新千載])
 まつち山今朝こえ来れば霧こめて隅田川原は見れどわかぬかも(田安宗武)
 あさもよし木人ともしきま土山夕越行けばさをしか啼くも(〃)
 旅なればたれかは我をまつち山夕こえ行きて宿をとふとも(本居宣長)

 凡庸と言うしかない歌もあり、悪くない歌もある(和歌素人の感想です)が、どれも、そこからさらに類歌を生むほどの魅力は感じ取れない。老のこの歌は、万葉集の中で有名とまでは言えないが、晩年の藤原定家はこの歌を見つけ出したのだし、さらにその先で、西行の「年たけて又越ゆべしと思きや命成りけり佐夜の中山」につながる……と私は考えてしまうのだが、飛躍だろうか?

 実のところ、この弁基-老の歌と西行とを比べる論を、私は見つけられなかった。だが、よくよく調べたわけではないので、どこかで誰かが、西行の歌のはるか昔の縁戚として遇していることを期待しておこう。次回、老と、藤原宇合うまかい、高橋虫麻呂の作品を比較し、常陸国風土記に詩想を吹き込んだ詩人の正体について、さらに検討したい。