和銅六年(713年)、後に風土記と称されるようになる報告(解)を国ごとに出すようにという詔が出される。発令の時期と任期から考えて、常陸国風土記作成にかかわった可能性のある国司は、阿倍秋麻呂、石川難波麻呂、藤原宇合の三人。後二者には、それぞれ春日蔵首老と高橋虫麻呂が下僚として作成にかかわったのではないかとも言われる。
前二者の国司も当時の貴族として漢文の教養を有していただろうが、懐風藻、萬葉集などに作品がないことから、「作者」としては検討の対象から外す(国司としてかかわった可能性を排除しない)。常陸国風土記は「現存風土記の中で最も文學的技巧的であることは言ふまでもない」と国文学者久松潜一が述べるように(『万葉集考説』昭和10年)、他の風土記より文芸的な価値が高いと認められていた(先述のように折口信夫は否定的)。
明治26年、水戸藩出身の歴史家菅政友が、宇合が常陸国風土記を「潤色」したのではないかとの試論を提起し、以後これが有力な説として継承されて来た。宇合が懐風藻に漢詩を寄せるほどの文人であることが一つの根拠とされている。宇合説を前提として、万葉歌人として高名な虫麻呂が共同の、あるいは補助的な作成者としてあげられて来た。しかし、同説には、宇合の常陸国赴任が詔の出された年よりかなり遅いという弱点もあった。
上述の三人が国司であった時期からすると、常陸国風土記の撰述者として最も蓋然性が高いのは難波麻呂である。老は当時部下として彼についていたとみられる。帰化人の家系で、新羅への留学僧だった経歴を持つ。懐風藻に漢詩が採られるほどの素養を持つ上、万葉歌人でもあったので、文学的な解の作成者として「資格」があるというわけだ。しかし、こちらは有力説とはならなかった。一方で、これら候補者複数の手が入っているのではないかとする論者もいたが、これも通説となるには遠かった。
国文学者の八木毅氏は『古風土記・上代説話の研究』(昭和63年)で、常陸国風土記作成者として宇合説を主に紹介しながら、老説も取り上げる。その上で「完本『常陸国風土記』が発見されるとか、有力史料がもたらされるとかしない限り決定的な結論は得がたいのではなかろうか」と率直な意見を述べている。
近年では、風土記について活発な議論を続けている前出の橋本雅之氏が、独自の知見から宇合・虫麻呂説を改めて主張する一方、#3で触れた三浦佑之氏『風土記の世界』では、時期的に秋麻呂、難波麻呂のどちらかの撰述になるものとし、宇合や虫麻呂を取り込もうとする論を「一種の有名人病」と切り捨てる(老には触れていない)。
結局、誰が常陸国風土記を作成したのか、定説と言えるほどのものはないことになる。老を推したい私には歯がゆい状況だが、むしろ老説が場外に弾き出されなかったことを多とすべきかもしれない。私としては、老と、宇合、虫麻呂が残した「作品」を比較し、それらと常陸国風土記の文章を考量して、老の手が入っている可能性を、できれば高い可能性を導き出したいと考えている。
この意図を実現するためには、常陸国風土記の文章の特長を具体的に論じる必要がある。そうした類のことを、実は前に行っていた。というより、このブログは常陸国風土記の文章を賞揚しようとするところから始まったのである。#4、#5、#6がそれに当たる(当時は理由あってブログに検索よけのタグを付けていたので、読んだ人は殆どいないはず)。比較考量の便宜のため、上記の回に取り上げた箇所の訓み下し文を下に引いておく(角川ソフィア文庫版。一部の漢字にやむを得ない変更あり)。中村啓信氏による訓み下しは、各種の常陸国風土記中、最も魅力があると思う。
倭武の天皇、東の夷の国を巡狩はして、新治の県を幸過す。国造那良珠命を遣はして、新に井を掘らしむるに、流泉浄く澄み、充好愛し。時に、乗輿を停めて、水を翫び、手を洗ひたまふ。御衣の袖、泉に垂りてひず。袖を漬す義によりて、此の国の名と為り(常陸という国名にした)。
夫れ筑波岳は、高く雲に秀で、最頂は西の峯崢嶸し。雄の神と謂ひて登臨らしめず。唯、東の峯は四方磐石にして、昇り降りは坱圠あれども、其の側に泉流れて冬も夏も絶えず。坂より東の諸国の男女、春の花の開くる時、秋の葉の黄つ節、相携ひ駢闐り、飲食を齎賚て、騎にも歩にも登臨り、遊楽し栖遅む。
浄き泉は淵を作して、下に是れ潺ぎ湲る。青葉は自に景を蔭す。蓋を飄し、白砂は亦、波を翫ぶ席を舗く。夏の月の熱き日に、遠き里近き郷より、熱きを避け涼しきを追ひて、膝を促け手を携へて、筑波の雅曲を唱ひ、久慈の味酒を飲む。是れ、人間の遊びにあれども、頓に塵中の煩を忘る。