常陸国風土記の「作者」、結論  #82

Wikipediaより*

 万葉集を読んで感じられる春日蔵首老かすがのくらのおびとおゆの歌の特質とは、どのようなものだろうか? その多くが個の性質を帯びていることだ、と私は考える。万葉の時代の「個」とは……という面倒な問題には立ち入らず、作品にあたろう。第1巻の56番歌「河上かわのへのつらつら椿つらつらに見れども飽かず巨勢こせ春野はるの」は、繰り返しのリズムが軽やかで、老を有名にするほどではないにしろ、愛されているかわいらしい歌だ。坂門人足さかとのひとたりの「巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ思はな巨勢の春野を」は少し前の54番に置かれているものの、こちらは派生歌だ。

 使われている言葉は8割方同じなのに、両者には明確な違いがある。56の老は川辺の椿を一人眺めている。一人だから飽きるまでいつまでも見ていられる。54の歌は、岩波文庫2013年版の注釈によれば、秋の巨勢野を行く同行者に、椿が満開だった巨勢の春野を偲んでみましょう、と呼びかけているのだ。歌は共同体的なものから生まれ、やがて文字に記録されて万葉集になったわけで、野遊びの座興のような人足の歌は、こうした成り立ちを考えれば正統的とも言える。

 54について、単に、巨勢の春の野が思い出されるなあ、とする解釈もある。この場合も人足は一人ではない。私はあの「つらつら椿」歌を参照していますよ、と読む人に目配せしているのだ。成功して第1巻の54番という早い掲載順となった。うがった解釈をすれば、老のオリジナルは満開の椿に一人没入して眺め入る姿が、万葉の時代の人々には見慣れない、落ち着かないものだったので、派生歌を先に置いたのかもしれない。老の他の歌からも、こうした個的な性質は読み取れる。以下、歌自体は#78を参照のこと。

 泊瀬山はつせやまの歌(3-282)は、真土山まつちやまの歌(3-298)と響きあって、暗い峠道を一人行く寂しい姿が思い浮かぶ。焼津の歌(3-284)の老は自分一人の思い出の内にいる。彼は旅を重ねる境涯だったのに、旅の途中で「吾妹わぎも」を思い出す定型の歌を残していない。三川みつかわの歌(9-1717)の老は孤独の身の上を嘆いている。照る月の歌(9-1719)では、暗闇の中でただ一人雲に隠れる月の行方を追っている。船に老だけが乗っているという状態はあり得ないのだが。

 老は自分が一人きりであるという視点から風景や思い出を歌う(そうした描き方と、水という題材(#79)は相性が良さそうだ)。万葉の時代において、こうした個的な歌は例外的である――とまで、私の狭い知見からは言えないのだが、風景を妻や都などを思い出すよすがとする、よくある歌い方はしない。もちろん、このことは老が現実世界で孤独だったことを意味するわけではない。

 完全に孤立した人間が貴族に取り立てられるはずはない。妻もいて(少なくともいたことがあり)、娘は藤原家に嫁いでいる。懐風藻の漢詩は曲水の宴という社交の場で作ったものだ。しかし、老が寂しさを表現する時、他の多くの万葉歌人とは違って、我が身一人のこととして歌にしたのである。1-62の対馬の歌は、ぬさで船出の無事を歌う社交的、かつ定型を用いた歌だが、残される側の深い孤独が滲み出ている。私は、新羅に向けて一人で見送りもなく対馬を旅立った老自らの寂しさを歌ったものではないか、と疑っている。

 こうした老の孤独の影は、万葉集全体は措くとして、藤原宇合ふじわらのうまかいと高橋虫麻呂という常陸国風土記の作者候補二人と比較する時、鮮明になる。宇合の六つの歌に、老のような孤独感は絶無だ。屈強な武人らしく健やかに、旅の思い出や、離ればなれの「いも」のことを、万葉期の定型を疑うこともなく歌にするのである。9-1729の歌は「あかときの夢」という発句は魅力的だが、「しきりと思い出される」という挙句が凡庸に過ぎて残念。

 虫麻呂の長歌は、そもそも個人の情緒に沈潜して歌うものではなく、はるかにスケールが大きい。美しい風景を描いても個人の視線に依拠せず、社会的な広がりを持った描写になる。それは当時の歌が、社交に止まらない社会の公器でもあったことを示しているかのようだ。虫麻呂は、長歌において卓抜した才気を発揮し、伝説、地方の風俗から接待登山まで、縦横に歌い上げた。ただ時々、報告書の文面めいた四角い書きぶりになってしまうように私には感じられる。

 ふむ。報告書めくのなら、虫麻呂は風土記の書き手としてふさわしいのではないか……? いや、そうではない。私は常陸国風土記という「」に詩想を吹き込んだ者を捜しているのだ。虫麻呂に「詩想」があったとしても、それは社会的な視点を含んで世界を見晴るかすような舞台で発揮される。倭武天皇やまとたけるのすめらみことが泉の清らかな水に触れる指先に視線をとめることは、彼にはできない。孤独の内に詩魂を育んだ詩人だけが、それを見ることができる。

 倭武は旅をしている。多くのお付きがいて、自らは輿こしに乗っている。しかし、彼は深い孤独の内にいる……なぜ遠く都を離れて「蛮族」との戦いに明け暮れているのか? 私たちは知っている。老もまた。老は、孤独な倭武が泉のそばに立ち、しゃがんで水に手をひたす動作の全てに、自らの視線を重ね合わせることができる。虫麻呂には無理だ。

 老は、常陸国の庶民が暑い夏の盛りに楽しむ様子や、歌垣の恋愛遊戯について見聞きする。今は貴族の身分だが、元は庶民の側にいた。彼はそうした情景を無味乾燥な文章では綴らなかった。老は民衆の内側に視線を置いた(実際にその中に入って楽しんだかどうかは……不明)。彼らの楽しむ様を内側から文章にすることで、自らの孤独な詩想を「解」の中に活かす道を見出したのだ。彼が貴族社会の中で孤独だっただろうと想像することは難しくない。

 捜していた「作者」が見つかったようだ。しかし、まだ書くべきことがいくらか残っている。次回、常陸国風土記をめぐる最終回に続ける

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