常陸国風土記と三人の万葉歌人  #78

 天平の無名詩人、春日蔵首老かすがのくらのおびとおゆを、首尾良く常陸国風土記に詩想を吹き込んだ人物と名指すことができるだろうか? 同風土記の撰述者とされることの多い藤原宇合うまかいと高橋虫麻呂と併せ、三人の万葉集の作品を比較することで確かめたい。別に論文ではないのだから、私がそう思ったでもいいのだが、ある程度の客観性を目指す方がこのブログらしいと思う(引用は岩波文庫2013年初版『万葉集』による。以前の回と表記が違っていることがある。末尾の数字は、巻数-歌番号)。

 まずは春日蔵首老。弁基(3-298)と春日(9-1717)の歌を含む一方、社交的な返答歌(3-286)を省いた。老がその「個性」を発揮して作ったとは思えないので。逆に、同じ観点から、#72で取り上げた懐風藻の漢詩を再録した。

 河上かわのへのつらつら椿つらつらに見れども飽かず巨勢こせ春野はるのは(1-56)
 ありねよし対馬つしまの渡り海中わたなかぬさ取り向けて早帰りね(1-62)
 つのさはふ磐余いはれも過ぎず泊瀬山はつせやま何時いつかも越えむはふけにつつ(3-282)
 焼津やきづが行きしかば駿河なる阿倍あへ市道いちぢに逢ひしらはも(3-284)
 真土山まつちやまゆふ越え行きて盧前いほさき角太すみだ河原かはらにひとりかも寝む(3-298)
 三川みつかは淵瀬ふちせもおちず小網さでさすに衣手ころもで濡れぬはなしに(9-1717)
 照る月を雲な隠しそ島陰しまかげに我が船てむとまり知らずも(9-1719)

 花色花枝くわしょくくわしを染め、鶯吟鶯谷あうぎんあうこくあらたし。水に臨みて良宴を開き、さかづきにうかべて芳春をはやす。(懐風藻59)

 次に藤原宇合の歌。彼の漢詩文は「四六駢儷体しろくべんれいたいの美文」の方に通じるものであり、今回の検討の対象としない。私はそこに詩想を感じ取れなかったのだ。ただ、常陸という辺土から先に都に戻る友人を送る七言しちごん(89)の序は、惜別の念より羨ましさや妬みの気配が優っていて、ちょっと面白かった。宇合は、その後さらに西国に遣られるのだが、これは彼が官僚として、軍人として、有能さを買われた故のようだ。

 玉藻たまも刈る沖辺おきへがじしきたえのまくらのあたり忘れかねつも(1-72)
 昔こそ難波なにはゐなかと言はれけめ今みやこ引き都びにけり(3-312)
 我が背子せこ何時いつそ今かと待つなへにおもやは見えむ秋の風吹く(8-1535)
 あかときいめに見えつつ梶島かぢしまの礒越す波のしきてし思ほゆ(9-1729)
 山科やましな石田いはたの小野のははそ原見つつか君が山道やまぢ越ゆらむ(9-1730)
 山科の石田のもりぬさ置かばけだし我妹わぎもただに逢はむかも(9-1731)

 最後に高橋虫麻呂。万葉集には、東国に材を取った彼の歌が多く含まれる。それだけに、虫麻呂が常陸国風土記の撰述者である可能性は捨てがたい。下では、虫麻呂の得意とする説話を元にしたと覚しい長歌を省いた。#72にも書いたように、彼のその類の長歌は、真の詩というより長歌の形をとった記録のように私には見えるのだ。

 なまよみの 甲斐かひの国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 富士の高嶺たかねは 天雲あまくもも いきはばかり 飛ぶ鳥も 飛びものぼらず 燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ 言ひも得ず 名付なづけも知らず くすしくも います神かも 石花の海と 名付けてあるも その山の つづめる海ぞ 富士川と 人の渡るも その山の 水のたぎちそ 日の本の 大和の国の しづめとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも(3-319)

 遠妻とほづま多珂たかにありせば知らずとも手綱たづなの浜のたづなまし(9-1746)

 島山しまやまを い行き巡れる 川沿ひの 岡辺をかへの道ゆ 昨日きのふこそ 我が越えしか 一夜ひとよのみ 寝たりしからに うへの 桜の花は 滝の瀬ゆ 散らひて流る 君が見む その日までには 山おろしの 風な吹きそと うち越えて 名に負へるもりに 風祭かざまつりせな(9-1751)
 反歌
 いき逢ひの坂の麓に咲きををる桜の花を見せむもがも(9-1752)

 衣手ころもで 常陸の国の 二並ふたならぶ 筑波つくはの山を 見まくり 君ませりと 暑けくに 汗かきなげ の根取り うそぶき登り うへを 君に見すれば 男神ひこかみも 許したまひ 女神ひめかみも ちはひたまひて 時となく 雲居くもゐ雨降る 筑波を さやに照らして いふかりし 国のまほらを つばらかに 示したまへば 嬉しみと 紐の解きて 家のごと 解けてそ遊ぶ うちなびく 春見ましゆは 夏草の 繁くはあれど 今日の楽しさ(9-1753)
 反歌
 今日けふの日にいかでかむ筑波嶺に昔の人のけむその日も(9-1754)

 わしの住む 筑波の山の 裳羽服津もはきつの その津のうへに あどもひて 娘子をとめ壮士をのこの つどひ かがふ嬥歌かがひに 人妻に まじはらむ 我が妻に 人も言問こととへ この山を うしはく神の 昔より いさめぬ行事わざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事もとがむな(9-1759)
 反歌
 男神ひこかみに雲立ちのぼりしぐれ降り濡れとほるともわれ帰らめや(9-1760)

 牡牛ことひうしの 三宅のかたに さし向かふ 鹿島の崎に さ丹塗にぬりの 小船をぶねけ 玉巻きの 小梶をかじしじき 夕潮ゆふしおの ちのとどみに 御船子みふなこを あどもひ立てて 呼び立てて 船出でなば 浜もに おくて いまろび 恋ひかもらむ 足ずりし のみや泣かむ 海上うなかみの その津をさして 君がゆかば(9-1780)
 反歌
 海つぎなむ時も渡らなむかく立つ波に船出ふなですべしや(9-1781)

 さて、これら三人の歌を、「常陸国風土記を書いた詩人」という観点から見たとき、どのようなことが言えるだろうか? 次回に続く。