壁の向こう側へ 「告白」(6) #49

アウグスティヌスが好奇心の人だったことは、「告白」を読めば明らかだ。なので、青年アウグスティヌスがマニ教を信じるに至ったことについても好奇心の働きがあった、と想像するのは許される気がする。さらに、キリスト教が好奇心を否定するが故に、彼は一旦キリスト教から離れたのだとまで言えば、さすがに妄想と叱られるかもしれないが(個人的にはあり得ると思っている)。アウグスティヌスは、聖書を批判する「愚かな欺瞞者たちの意見に同意」したのである。しかし、やがてマニ教の教師たちの無知に失望し、その教説が彼の知的好奇心を満足させなかったために、彼はキリスト教に回帰したのだった。

#24で、私は旧約聖書中の虐殺の記述に気分が悪くなって、読書を中断したと書いた。中公文庫版『告白』本文と註によれば、マニ教も旧約中で「人々を殺す」者が義人(正しい人)とされることを批判していた。ここでの義人とは主にモーセを指す。マニ教徒の批判に対するアウグスティヌスの聖書擁護の弁をみてみよう。

アウグスティヌスは次のように述べる――モーセに許されたことが今の時代の義人に禁じられるのは、道徳が地方地方、時代時代に応じるものだからだ。しかし、正義そのものが多様に変化するわけではない。旧約聖書でアブラハムやモーセらが義とされるのは、神の絶対的な「真実の正義」による、と。アウグスティヌスは、時と場所による相対性の議論から始めつつ、神の真理によって相対性を超えようとする。

しかし、人の世において時の流れは御しがたい。アウグスティヌスは、同性愛について「ソドム人のしたような、自然本性に反する醜行は、いかなる所、いかなる時においても、唾棄され罰せられなければなりません」と述べている。同性愛は神の絶対的な「真実の正義」において罪だということになる。現代社会で公人がこんな発言をすれば、間違いなく世間の表から追放されてしまう。

長々と「告白」について駄弁を連ねながら、私はもっとも重要であるとされるアウグスティヌスの回心について殆ど触れなかった。実は、読んで大して印象に残らなかったからだ。奇を衒っているのではなく、正直な「告白」である。理由の一つは、なぜだか毎月送られて来る超マイナーかつ超異端と覚しい無教会系キリスト教宗派の雑誌に、ものすごい回心(コンヴァージョン)の経験談が毎号掲載されており、それらと比較すると、アウグスティヌスの方はさほどのものではないと感じてしまうのだ。アウグスティヌスは社会的地位にも生活にも恵まれていたが、そちらの宗派の雑誌では信者の悲惨と言っていいほどの辛苦が綴られ、ために彼らや彼女らが回心によって救われるという出来事が大変にドラマティックに感じられるのである。

もう一つ、彼の回心とはキリストではなくカトリック教会への帰依を意味しているからだ。教会なくして信仰なしという教説を受け入れたのである。これには「教会の壁がクリスチャンをつくるのか?」と不満を言いたくなる。この言葉は、その著書がアウグスティヌスにも影響を与えたローマの有力者マリウス・ウィクトリヌスのものだ(第八巻第二章)。私の気持ちにはピッタリ来る。ウィクトリヌスはローマの古代宗教の信奉者だったのである(もっとも、彼は老年になってカトリックの洗礼を受け、壁の内側の住人になってしまうのだが)。非信者からすると、壁を取っ払った無教会派キリスト教の方が純粋に見えてしまう。アウグスティヌスの教会への回心よりも納得しやすい。外見より中身、形式より内容という近代的「偏見」を、私もわかち持っているせいだろうか。

ただし、アウグスティヌスの時代、キリスト教の「教会の壁」が不安定だったことは考慮すべきかもしれない。そもそもキリスト教国家となったローマ帝国自体、衰亡の気配が色濃くなっていた。古代宗教を復活させ、キリスト教を迫害した「背教者」皇帝ユリアヌスが亡くなったのは、アウグスティヌスの少年期である。ウィクトリヌスが信仰告白を一般信徒の前で行って大歓迎されたのも、教会の威信が盤石でなく、「敵方」からの大物転向者は格別だったからだろう。やや時代が下がったアウグスティヌスの頃も同様だったと考えられる。アウグスティヌスが聖人とされたのは、後の時代に教会の壁が大変丈夫になる礎を作るのに大いなる貢献したためと思われる(個人の感想です)。

アウグスティヌスの回心についてネガティヴなことを書いて来たが、それ自体に文句をつける気は勿論ない。縁なき衆生であっても、信仰心は貴いものとして尊重する。ただ、教養小説としての「告白」の読者として、この「ストーリー展開」は残念なのである。物語の最後で「坊ちやん」が出家したり、「ライ麦畑」の主人公が修道院に入ったりしたら、読者はガッカリするだろう。嘘をつけない作者を咎めるわけにいかないのはわかっている。それでも、一度は道を外れ、その後も横溢する好奇心と肉欲のために何度も「たおれた」語り手=主人公に、次のようなことは言ってほしくなかった。

聖書を「信じない人々こそ、咎められるべきだ。もしだれか私にむかい、『それらの書物が、唯一の真の、真実を語る神の霊によって人類に伝えられたということを、どこから君は知るのか』とたずねる者があっても、その言に耳をかたむけてはならない」

「主よ、宇宙のもっとも義(ただ)しい支配者よ……あなたは……だれかがたずねるとき、聞くべきことを聞くようになさいますが……これにたいし人間は『これはいったい何か』『何のためか』などといってはならない。けっして、けっして、いってはならない。なぜなら彼は人間にすぎないのだから」