常陸国風土記と老の生涯   #80

久慈川支流の河原*

 #6で、川べりでの「盛夏の楽しみ」は、古代も後の時代も似ていて、「私も子供時代にこんな楽しい時間を過ごしたことがある。今の子供も少し幸運なら可能だろう」と書いた。常陸国風土記の「夏の月の熱き日に、遠き里近きさとより、熱きを避け涼しきを追ひて、膝をちかづけ手を携へて、筑波の雅曲みやひとぶりを唱ひ、久慈の味酒うまさけを飲む」という部分を引いてのことだ(子供時分、さすがに酒は飲まないが)。常陸国風土記は、ここでも個人の思い出を誘い出すような書きぶりなのだ。

 こうした民衆の生活を直接的に描く文章は、常陸国風土記以外、風土記でも記紀でも殆どお目にかからない。かろうじて日本書紀に「垣間見える」だけだ(#6)。実は書紀と風土記には共通点がある。書紀には、地方の民衆に伝えられたものが記録され、「何らかのルートによって書紀編修の史局に集められた」と考えられる文書があり(#20)、風土記はそもそも、領国の各地から原資料となる報告が集められて「解」に仕立てられたものだ。しかし他の風土記における民衆の姿は、常陸国風土記と違い、神々や天皇の活動の背後で見出されるに過ぎない。

 このことは、常陸国風土記の共感的な書きぶりが、書き手と民衆との距離の近さによるものと言い切れないことを示す。播磨国風土記や出雲国風土記は八木毅氏の言う「庶民の文体」で書かれ、後者では従六位の国造=地方官がまとめたことが明記されている。九州の二風土記の文体は、藤原宇合うまかいの手になるとの説もあるほど「貴族的」だ。一方、常陸国風土記では、書き手候補中最も地位が低いと推定される春日蔵首老かすがのくらのおびとおゆですら、最下級の従五位下とはいえ貴族に列する者である。五位以上と六位以下とは身分的に隔絶していたとされる。

 国文学者の小島憲之氏によれば、常陸国風土記では書紀のような漢籍そのままの引用は見あたらず、「述作者が漢籍的な文章を自由にこなす能力があることを示す」(文献は後の回で他とまとめて記します)。つまり、播磨や出雲の撰述者より冠位が高く、貴族の文体を自由に使いこなす者が、民衆に対してより共感的な文章を書いたことになる(今回一部を取り上げた川遊びの文章の全体は文飾がやや多く、引用に続く部分に「人間ひとのよの遊びにあれども、ひたぶる塵中よのなかわづらひを忘る」とあるのは貴族的な神仙思想の発露のようにも思われる)。なぜ、こうした「逆転」が起こったのだろう?

 常陸国風土記の撰述者に、他の風土記の書き手にはない特質があると推定すべきだろう。もちろん私は春日蔵首老のことを考えているのである。老、宇合、高橋虫麻呂の内、老だけに立場の違いがある。彼は貴族の出でなく、従五位下に叙爵されたのである。ただし、老は貴族ではないものの家司のような立場で、最高位の貴族である藤原不比等の身近にあったようだ。高度な漢文の素養を身につけ、万葉歌人となったことについて、こうした貴顕との関係が作用しただろうことは想像に難くない。

 老は万葉集において主要な歌人とはいえず、その生涯について不明点が多い。確かなのは、僧籍にあって弁基(弁紀とも)という法名だったこと、大宝元年(701年)に命ぜられて還俗げんぞくし、春日蔵首老という姓名と 追大壱の位(48階位中の33番目)を与えられたこと、老の娘が藤原不比等の次男藤原房前ふささきの妻になったこと、和銅六年(714年)、正六位上から昇進して従五位下の冠位を賜り貴族に列したこと、後に万葉集、懐風藻に歌と漢詩が収められたことである。

 老の上記のような昇進は、恐らくはその才知、またそれを認められる環境に身を置いていた結果だろう。老の妻は房前の乳母であったとの推定があり、出家したのも、新羅への留学僧となったのも(後者は確証なし。#78の1-62対馬の歌はその可能性を示す?)、こうした条件があってのことと考えられる。律令国家では、僧侶の還俗は刑罰だったのだが、7世紀末~8世紀にかけて、主に帰化人の僧侶十人ほどが命を受けて還俗している。

 これは医学、陰陽などの「芸術」を持つ人材を確保するためだったようで、弁基もその一人だった(老は帰化人系と言われるが、自身は「倭人」である)。弁基がどのような「芸術」を期待されたのか不明であるものの、その詩文の才が認められていたことは間違いない。そして還俗の十数年後、従五位下の貴族となる。常陸介ひたちのすけとして赴任したのは、「風土記」編纂の命が下された和銅6年5月より後だと考えたい。

 赴任前後の常陸守ひたちのかみは阿部秋麻呂と石川難波麻呂なにわまろである。老は恐らく弁基の時代から歌人、文人として知られていた。私の推測は、秋麻呂が「風土記」編述に用いるため、老を常陸介としてリクルートしたというものだ。これを立証することはできないが、あり得ることだと思っている。常陸のような大国で介となるには貴族の位階が必要であり、そのため秋麻呂の働きかけによって老が叙爵されたのだ、と。

 上記を立証することはできない。しかし、身分制度下では身分と職掌が不可分であるため、変動期においては、新時代に適合した能力を持ちながら身分の低い者を、上位の身分に取り立てて用いることがあったのは事実だ。飛んで江戸時代末の激動期、土佐藩で下士から上士に、さらに藩の重役となった三菱の創設者岩崎彌太郎や、農民から幕府重役にまでなった渋沢栄一はそうした例である(拙著『岩崎彌太郎 会社の創造』講談社現代新書参照。ただし絶版なので図書館などで、どうぞ)。律令制度が整備されていく時期、学芸に秀でた帰化人僧侶を還俗させてその能力を活用し、老においてはさらに貴族への昇進という事態が生じたのではないか。

 ここまで来てなお、先に示した疑問に答えていない。昇進し授爵された老が、下位身分の者の書いた「風土記」には見られない民衆の姿や共感を描くことができたのはなぜか、という問題だ。これについて考えるために、老と時を同じくして従五位下の貴族となり、民衆の生活を歌にした著名な万葉歌人を思い出してみたい。山上憶良である。老や憶良が民衆に近い書き方をしたのには、意外にも、彼らの漢学の素養の高さとかかわる可能性がある。以下、次回。

 *写真は常陸太田フィルムコミッションのサイトより。