ドン・キホーテ」タグアーカイブ

キホーテ、カルデニオ、ハムレット(2)  #63

国会図書館に遠隔複写を依頼していた太田一昭九州大学名誉教授の論文「『二重の欺瞞』の作者同定と文体統計解析」が届いて読むことができた。結果、カルデニオとハムレットの間に縁戚関係を見つける意義に確信を深めた一方で、「立論」の方向性は変えることにした。

つまり、(1)にあげたゲイリー・テイラーらによる著書中の論文に依拠し、それをカルデニオ-ハムレット説の骨組みとして論述しようと考えていたのだが、この計画は捨て、文献から得た知見を活かしながらも、それらは主に自説を補強する材料として使用することにした。

これら論者は、「二重の欺瞞」が、18世紀のシェイクスピア全集編纂者であるルイス・ティボルドによる偽作とみなされることが多かったのに対し、新史料の発見やコンピュータを活用した研究によって定説を覆し、シェイクスピア(とジョン・フレッチャーによる共同)の作品として、シェイクスピアの正典とされるアーデン版、新オックスフォード版(断片として収録)が出版されたのだった。 続きを読む

ハムレットとドン・キホーテ

ツルゲーネフが「ドン・キホーテは殆ど読み書きができません」と述べた件の続きです。猫の尻尾をつかんだつもりで「問題」をたぐり寄せてみたら、その正体はライオンと判明しました。本気で取り組む必要のあるテーマだったということですが、私の興味の対象から外れている上に、眼痛と頭痛も去りません。逃げます。逃げますが、行きがかり上、突如現れたライオンについてできるだけ簡略に記します。その後で、前回述べた「二つの可能性」に触れることにします。

昭和23年初版の岩波文庫『ドン・キホーテ正編(一)』には、スペイン語原典から初めて日本語訳を行った永田寛定氏による詳細な解説がついています。中でツルゲーネフの「ハムレットとドン・キホーテ」に触れていると知り、先日入手しました(昭和46年改訂版)。その「名高い講演」は解説の主要な話題の一つだったのですが、私がおかしいと感じたことについては、片言もありません。訳者の永田氏が気づかなかったはずはないのに、どういうことでしょうか?

永田氏の解説の主題は作者や主人公などの人物論であり(主人公=作者と強調されます)、作品と歴史や社会とのかかわりについてです。その点において、実は1860年にロシアで行われたツルゲーネフの演説と相似です。自己にとらわれていっかな行動しようとしないハムレットと、自らを顧みず「大義」のために生きるキホーテとの対比は、時も距離も言語も超え、戦後日本においても有効だったのです。それは民衆のために身を捨てる革命家と、内省の内に生きて傍観者となる知識人の比喩でもありました。 続きを読む

ツルゲーネフとドン・キホーテ

Shoko Teruyama ©2020

国会図書館の遠隔複写はすぐには届かないと思われるので、カルデニオとハムレットの続きは後回しにして、ドン・キホーテ補遺が終わってから書こうと思っていた内の一つを前倒しします。主に翻訳にまつわる話題です。材料はツルゲーネフの「ハムレットとドン・キホーテ」

ツルゲーネフは、高校の現代国語の教科書で「あいびき」を読み、文章そのものに感動するという初めての経験をした作家です。もちろん二葉亭四迷訳。手許にある新潮文庫版は昭和46年9月19刷。浪人生だった時に東京の書店で購入したもと思います。四迷「浮雲」は何がいいのかよく分かりませんでしたが、四迷訳ツルゲーネフの文章は今読んでも感じ入ってしまいます。

研究社シェイクスピア辞典にはツルゲーネフの項があります。ツルゲーネフが「ハムレットとドン・キホーテ」の中で、人間をドン・キホーテ型とハムレット型に二分したことが、一時期影響力を持った現れのようです。ツルゲーネフは、自己の信念に従い、無垢で無私のドン・キホーテを称揚する一方で、懐疑的でエゴイスティックだとしてハムレットを批判しました。 続きを読む

キホーテ、カルデニオ、ハムレット(1)  #62

シェイクスピアは、『ドン・キホーテ』の登場人物カルデニオにハムレットの面影を見いだしたのではないか? それが昨年1月に私の立てた問いだった(#29#33を参照)。答えを見つけようと、まずこの疑問に関わる著作や先行研究がないか捜した。吉田彩子先生(#33参照)にメールで文献を教えていただくなどして、スペインの側からの問いかけはないだろうという判断に至った。

では、イギリス側からはどうか? なさそう、というのが現時点での答えである。となると、カルデニオとハムレットを結びつけたのは、私の妄想なのだろうか? そうとも言えない、という結論にたどり着く探究の道行きについて、これから語りたい。私にとって、実にとんでもなく面白い旅だったのである。

シェイクスピアに関しては、汗牛が充棟したビルで大都市を形成されるくらい多くの文献・研究がある。そうした中、「カルデニオ」は研究の中心街からはやや遠いものの、それなりに人の出入りの多い一棟である。シェイクスピアの作品中「カルデニオの物語The History of Cardenio」は上演歴は確かだが、台本の残っていない「失われた劇ロスト・プレイ」であり、これを発見しようと追求・探究が長く行われて来たのである。まずそのことを私は知った。 続きを読む

チラシの裏に書くべき、なのか?  #2

本の面白さをめぐる考察は、全く個人的な事業である。つまり、私が自らの興味に従って提示した問いに、自分自身で答える。その答えは、他人に通用しなくても構わない。私が納得すれば、それが正解。だからといって、この先の航路が短く平穏なものになるという見通しは立たない。私は滅多なことでは自分自身の言い分を受け入れない性質なのである。

このような個人的な問いを、私はネットに「展示」しようとしている。2ちゃんねる流に表現するなら、そんなことは「チラシの裏に書いておけ」……日記に書けばいいようなことなのではないのか、と。確かにそうなのだが、もしかしたら誰かに読まれるかもしれないという緊張感はあった方が良い。むしろ、必要だ。それでなくては書き出すのは難しく、書き続けるのはさらに困難だ。長い間、「発表」をするための文章ばかり書いて来た弊害というところだろうか。

いま、「もしかしたら誰かに読まれるかもしれない」という微妙な書き方をしたのは、ネット上に自分の書いたものをさらす実験をした経験に基づいている。つまりは多少なりとも根拠のある言明だと思ってもらえると嬉しい。 続きを読む

ドン・キホーテは面白い……けれど  #1

本を読んで面白いと感じる理由について考えてみたくなった。きっかけは「ドン・キホーテ」だ。楽しく読んでいるのに、自分がなにを面白がっているのか分からず、釈然としないまま読了した。こんな経験は過去にない。

面白がって読んでいる最中、面白い理由について普通は考えたりしない。しかし、「ドン・キホーテ」の場合は、確かにこの小説は面白いけれど、何が面白いのかよく分からない、なぜなんだろう? とずっと自分に問いかけていた気がする。

それは私にとって「深刻な」と表現してもいほどの戸惑いだった。読み終えたのはずいぶん前のことだが、長い間、その不可思議な感覚を鮮明に思い出すことができた。この文章は、その戸惑いと疑問を究明するために書き始められた。もやもやと頭の中でわだかまっている問題について、書くことで解決できる場合がある……その可能性に期待をかけているのだ。 続きを読む