旧約聖書」カテゴリーアーカイブ

旧約聖書の凄さ(4)  #55

購入した、あるいは家にあった旧約関係本

神によってエジプト脱出の使命を与えられたモーセは、神威を示すためにファラオの前で杖を蛇に変えてみせた。するとファラオお抱えの呪術師も、同じように杖を蛇に変えたのである。出エジプトは、「唯一神」の力によらずとも杖を蛇に変えることができるような、そんな大昔あるいは「昔々」に起こったのだった。だから、#25に書いたように出エジプトの証拠となる文書や記録がなくても、まあ仕方がないとしよう。

しかし、武勇を誇るダビデが建国し、ソロモンの時代に栄華を極めたと旧約聖書に記されるイスラエル王国についても、同様に聖書以外に「証拠となる文書や記録」が見つからないとなると事情が違う。1990年代になって「ダビデ」と記載のある碑文が見つかったのが唯一の「証拠」なのだという(しかも碑文の記述は旧約と食い違いがある)。エジプトからユーフラテス川に至る地域には、もっと昔の時代の遺跡がいくらもあるというのに。

こうして明らかになるのは、一つは旧約は史実を記した本ではないこと、もう一つは旧約時代のユダヤ人は群小民族の一つに過ぎず、ダビデの王国にしても地方の豪族が成り上がった程度のものだったということだ。前者についてはまた後で触れる。後者については、もちろん旧約に弱小民族だったという記述はなく、各種の聖書入門本にもそうは書かれていない。学術的な内容を含む本では触れられる場合があるが、目立たない書き方なので素通りしそうになる。私はそうだった。 続きを読む

旧約聖書の凄さ(3)  #54

 バビロンにて(六本木ヒルズではない、はず)

#24で、旧約聖書を読む内、虐殺の記述の連続に「気持ち悪くなり、先に進めなくなった」と書いた。今回難所を無事通過できた理由(の一部)は、古代の戦記を読むなどして、歴史的には、戦いの勝者が敗者側を皆殺しに――子供を産める女性と子供はしばしば戦利品に――するのは当たり前だったと知ったからだ。ユダヤ人の祖先も同じことをしていたのである。

大澤武男氏の『ユダヤ人とローマ帝国』(講談社現代新書、2001年)では、「早くも旧約時代に絶滅の陰謀」(ナチスにまで繋がる「ユダヤ民族絶滅の陰謀」の意)の小見出しの元、エステル記が引かれている。アケメネス朝ペルシア時代、クセルクセス王の重臣ハマンは、独自の信仰に凝り固まった「ユダヤ人は危険であると感じ、ペルシャ全土に散在しているユダヤ民族を絶滅させようと企んだ」が、ユダヤ人女性エステルの美貌と勇気と狡智によって救われた。バビロン捕囚からの解放後も故郷に帰らなかったユダヤ人が、その宗教的な独自性のために絶滅されそうになったというのである。

大澤氏は、だが、その後ユダヤ人が王に許されて行った復讐は記さない。ユダヤ人は「集合して自分たちの命を守り、敵をなくして安らぎを得、仇敵七万五千人を殺した」(エステル記9-16)。ハマンは「アガグ人ハメダタの子」とあり、仇敵とはアガグ人(アマレク人)を指す。彼らのその後は知られず、この際に「絶滅」されたのかもしれない。ユダヤ人に限らず、部族ごと絶滅という事態はあり得たのである。そして、「捕囚」もまたユダヤ人だけに起こった出来事ではなかった。 続きを読む

旧約聖書の凄さ(2) #53

 バビロンへ続く道(渋谷だったかも?)

前回触れたように、旧約聖書を読むのは荒野、砂漠を行く旅に似ている。オフロードの冒険の楽しみは満載だが、癒しや共感といったものは、思いがけず行き着いたオアシスで味わう清水のように希少だ。荒野、砂漠は平坦ではなく、山もあれば谷もある。モーセ五書、歴史書(ヨシュア記等)はまさにアップダウンの連続だ。それに続く文学書(詩編、箴言等)は比較的楽に読めるが、その後には預言書という険しい山道が待ち構えている。

私の読んだ、続編を入れて1900ページ弱の新共同訳、旧約聖書続編付きの版では、1200ページを過ぎた辺りから読みづらさが増す。ここまで来て、まだ難敵がいたのかとガックリ。何が書いてあるのか、頭に入らないことが多くなる。視点が変わったのに気づかなかったり(しょっちゅう変わる)、いつの間にか文字面だけを目で追って意味がわからないままだったり。同じ文章を幾度読み返したことか。

預言書では、預言者はそれぞれ違っても、語られる内容には共通点が多い。王や人々が主との契約を守らず、ヤハウェ以外の神や偶像を崇拝したり、婚姻などで他民族と混じり合ったりしたことで、主の逆鱗に触れる。このため、ヤハウェは他国の強大な武力を用いて彼らを罰する。外国勢力に蹂躙され、多くの人が遠方に拉致されて捕囚となる。しかし主は彼らを見捨てたわけではなく、やがて捕囚から解放されるだろう、とも語られる。大まかには、こんな感じ。 続きを読む

旧約聖書の凄さ(1) #52

#52は、「その本は、なぜ面白いのか?」の第52回という意味です。#51から随分長く中断していました。このブログはそもそもこの形で始まったのでした。

旧約聖書を読み続けるうち、とんでもなく凄い本だと思うに至った。これからその凄さについて記すつもりだが、原則的に宗教的な考察は含まない。私はユダヤ教、キリスト教の信者ではなく、別のどんな宗教の信者でもない。宗教を論ずる素養に欠けている。また、前にも旧約のある種の凄みについて触れたが、今回の考察とはほぼ無関係である。私は一冊の本が世界と世界史を作り出したことに衝撃を受けた。そのことを書きたい。

久しぶりの「その本は、なぜ面白いのか?」なので、旧約聖書が面白い本と言えるのか、最初に触れておこう。今回はほとんど退屈しなかった(名前の羅列や神殿建築物の詳細などは斜めに読む)。一方で、読み物として面白いかと問われると、肯定しにくい。旧約は面白く読むことができるが、その面白さは読者の側から働きかけることで得られる種類のものだと思う。

実際、旧約を読む道筋は難路である。整備された道で、美しい景色やスピードのスリルを楽しむようにはいかない。矛盾や不合理の数々、感情移入しにくい登場人物、馴染みのない自然、記述や挿話の繰り返し、一方で断絶も多く……ガタガタ道を、私の持っている版では、2段組2000ページ近くを踏破しなくてはならない。 続きを読む

原因はないが、結果はある

真夏の沖縄、風  近所です

更新中断後しばらく、眼痛、頭痛のため本を全く読まなかったのですが、10日ほど前から読書を再開しました。初めは少しずつ。中断前、旧約聖書を読み終える見通しがついたところだったので、他はおいて聖書に専念、新共同訳で旧約の「続編」とされる部分の半分近くまで来ました。

前に旧約通読にトライした際には、#24に書いたように、気持ち悪くなって途中で読むのをやめました。その後、最早いつだったか思い出せませんが、もう一度最初から読み始め、かつての中断箇所は何なく通過しました。いま、好きとか面白いとかとは言い難いけれど、「すごい本」というジャンルがあるなら、私の中でダントツの一位です。 続きを読む

過去からの衝撃  #27

独自の宗教や神話が別の信仰や教義に代替されて失われた事例は、歴史上少なくない。キリスト教と聖書、イスラム教とコーランが土着の信仰、教義に取って代わるようなことだ。日本書紀は、もし日本が他民族による支配を受けていれば、たとえ抹殺されなかったとしても、国の根幹を明らかにする「民族」の神話、歴史書としては意味を失い、古事記に比して面白みに欠ける伝説集といった扱いになっていたかもしれない。いや、事実、第二次大戦後、GHQの統制下、そのような位置に近づけられたのだ。

しかし、米軍の支配は、支配される側の息の根を完全に止めるほどの「圧殺」ではなかったために、何とか息をつぐことができた。そして、占領が終わって何十年か経っても同じような状況は続いている。いつか歴史教科書において聖徳太子の存在が公式に否定される日が来れば、その時には書紀の「民族の神話」としての命脈が絶たれるかもしれない。……こんな風に考えていたら、ヨーロッパを始めとする世界のキリスト教徒が、旧約聖書の起源神話を「自分たちのもの」として受け入れているのが、何とも奇妙な光景のように思えて来た。それは古代イスラエル人の「神話」なのだから。

しかし、ここで改めて言っておきたい。書かれて残されたからこそ、約束の地で実際に何が起こっていたか、また大和王朝の成立史がどのようなものであったかを(少なくとも、どのように記述されたか、もしくは考えられていたか、あるいは考えたいと考えていたかを)知ることができるのだ、と。ほとんど痕跡を残さずに消された「民族」は数多い。

書かれ、残されていないが故に隠蔽されている虐殺は、数え切れないほど存在する。記録されていないから、それは文字通り「数え切れない」のだ。記紀、「インディオスの壊滅に関する簡潔な報告」、旧約聖書はむしろ例外なのかもしれない。まあ、中国の歴史という激しく入れ替わる陰映の無限大の集積のようなものもあるけれど。

千年、二千年の時を超え、「書かれたもの」が現実の政治を動かしている、という事実は驚嘆に価する。サルが言葉を持ってヒトになったとして、ヒトが文字で記録を残せるようになったこともまた、ヒトを別の段階へと変化させる何事かであったのだろう。いいことばかりじゃないので、「進化」という言葉は使いにくいが。

言葉が文字になり、文章が綴られて歴史が作り出される。その影響は時に衝撃的で、まばゆい光と深々とした影を未来に向かって投げかける。過去の出来事を、いま起きたかのように感じさせる書物が存在するのだ。それは凄いことだ(恐ろしいことでもある)。

ここで突然、「ドン・キホーテ」に立ち戻る。この小説は、セルバンテスの時代の出来事をついさっき起きたかのように伝えて来ることがある。古い本なら何でも、このようなことが起きるわけではない。私が「ドン・キホーテ」を面白いと思う理由の一つは、過去が生々しく生起する場所に立ち会わせてくれることだ。

誤解のないように付け加えておく。「ドン・キホーテ」が過去の記録として貴重だと言っているのではない。記録として貴重なのは事実だが(学者の証言もある)、そんなことのためにセルバンテスは「ドン・キホーテ」を書いたわけではなかった。それは時に優れた歴史書に比肩するほど鮮やかに、過去を甦らせる力を持つ、ということだ。

だいぶ前のことだが、とある文芸批評家(自称?)が、今の小説家の殆どはクズだから、将来の研究者のために現代風俗の記録となるものでも書いておけばいい、と語っていた。困った。私はクズだが、記録のために小説を書くはできそうにない。セルバンテスのような優れた小説家と、そこだけは同じなのである。

旧約聖書と日本書紀  #26

近代の白々とした光に照らされて、旧約聖書の虐殺の記述は暗い影の下に入ってしまった。それより前の時代なら、こんなことは取り立てて問題にするほどではなかったかもしれない。しかし、時代は変化する。大きくは近代化、ヒューマニズムに向かう歴史の流れの中で、また第二次世界大戦におけるユダヤ民族の悲劇が大きく作用して、そうした記述は隠蔽しておくべき秘事となったようだ。一方、日本書紀は、似たような歴史の流れにより、しかしそれが逆方向に作用して隠蔽の対象になったのだった(#22参照)。

旧約聖書と書紀は、私には何か妙な具合に似ている、不思議な共通点があるように思える。旧約と書紀が似ているなどと言うと、日本ユダヤ同祖論みたいなとんでも説かと思われるかもしれない。しかし、そういうことではないつもり。以下、両者の相似点、共通点を三つを挙げてみよう。

第一は、正反対の方向においてであるが、両書がともに政治的な意図に基づいて編まれたことである。先に引いた『一神教の起源』で、山我は「王国、王朝、神殿、約束の地の喪失という絶望的な状況のもとで……ヤハウェ信仰の正当性を論証」するために「ありとあらゆるレトリックを駆使」した「作業」が行われたと書いている。

吉田一彦は『「日本書紀」の呪縛』 (集英社新書)において、津田左右吉を引く形で、書紀は「編纂された時代の思想を表現した史料としてとらえるべき」と述べ、「天皇制度の成立にともなって、天皇の正当性や氏族たちの正当性を述べる政治的な創作物として作成された」とする。両者とも、それぞれの政治的意図に基づき、天地創造や国生みといった神話的記述に始まって、編まれた当時の「記録」に至る「文書集」が作成されたというわけである。

第二は、ユダヤ人と日本人が、両者とも、その長い歴史において、それぞれの「民族」の起源神話を生かし続け来たということである。両者の歴史的運命は正反対というべきものなのだから、この共通点は驚くべきことと言える。ユダヤ人は、長く続く民族離散という過酷な状況下において、その民族的一体性を保つ根拠となる聖書(キリスト教的には旧約聖書)を律法、教典として守り続けた。一方、日本では、他民族の支配を受けることがなく、また朝廷を滅ぼすほどの劇的な変革がなかったために、書紀は国家の起源を語る「正史」として命脈を保つことができたのだった。

両書とも長い時間を生き抜いたことによって、近代という「民族」が「発明」された時代において、その政治性がクローズアップされることになった。明暗が、第二次大戦を境に逆転したこともまた不思議な「因縁」である。ドイツによるユダヤ人虐殺→イスラエル建国。皇国史観→自虐史観。ここでも、明と暗は両者で逆方向を向いている。

旧約と書紀の第三の相似点、共通点を挙げるとしたら、どちらも異国の地にある人の手で書かれた部分があるということだ。「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた」(旧約詩編137)という悲しくも美しい詩行は、バビロン捕囚の憂き目に遭ったユダヤ人たちの嘆きの歌だった。旧約の創世記、モーセと出エジプトなどユダヤ教・キリスト教の信者でない者にもよく知られた箇所は、彼ら囚われれのユダヤ人によって書かれたのだった。

ちなみに先の詩は、エルサレムの破壊者であるバビロニア人や裏切り者らへの恐ろしいほどの復讐の祈りで終わる。「娘バビロンよ、破壊者よ/いかに幸いなことか/お前がわたしたちにした仕打ちを/お前に仕返す者/お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は」

一方、書紀では、朝鮮半島南部の諸国から亡命した人々やその子孫、また彼の地に住まっていた帰国者が編纂に加わっていたと考えられる。書紀後半における朝鮮半島の情勢や人の往来をめぐる煩瑣と思えるほどの記述の量の多さ、詳しさは、そうした人々の望郷の思いから来たとは考えられないだろうか? 唐に対し、日本が極東の宗主国だと見せかけるための捏造とする説もあるようだが、朝鮮半島とのやりとりの記述はまったき創作にしては念が入りすぎの感があり、私にはこのように考えた方が納得しやすいのである。

聖典の暗闇  #25

前章冒頭で、旧約聖書について「記録」と「 」つきで書いた。旧約の記述は正確な記録ではないが、かといって純粋なフィクションでもなく、事実を元に脚色されたものだろうと考えたからである――海が真っ二つに割れたことはなくても、大きな潮の満ち引きはあったのだろう、という感じ。旧約を繙く人は、専門・関連の研究者でない限り、大抵そんな程度の認識のはずだ。事実に基づくと思っていたからこそ、私は読んでいて気持ち悪くなったのだ。だが、何か腑に落ちない気がして、いくつか旧約関係の本にあたってみた。

山我哲雄『一神教の起源』などによれば、数十万人のイスラエル人が一斉にエジプトを脱出し、カナン(後のパレスティナ)へ集団で移動・定住したという旧約の記述の根拠となる文書記録や考古学上の痕跡はないのだそうだ。ユダヤ教、ユダヤ民族は、実際には、主にパレスティナの地で、長い時間を経て形成されていったらしい。

その後、ユダヤ国家の滅亡、バビロン捕囚という厳しい状況の中で、ヤハウェ以外の神を否認する唯一神教という宗教的アイデンティティーが確立していく。旧約聖書はその礎となる物語であり、律法であり、また経典、神話、記録でもある文書集として編まれた(出エジプトが措定される時期と、旧約が編まれた時代とは、数百年の時で隔てられている)。それは、民族離散という困難な状況下において、ユダヤ人が「同一民族」であり続ける強い武器となった。 続きを読む