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「再び恋に落ちたシェイクスピア」限定公開

シェイクスピア大明神に導かれるままに書いた「再び恋に落ちたシェイクスピア」、限定的に読んでもらえる手はないかと考えていました。そもそもは、映画続編のシノプシスを書いてみよう、それがブログ1回分のネタになればと思いつきから始まりました。

ところが着手すると、登場人物やストーリー、場面の細部が勝手に、次から次に浮かんで来て途切れることがありません。それらを懸命に書きとめる内、400字詰め原稿用紙換算で100枚弱、シナリオ第一稿のようなものができてしまいました。長すぎて、ブログには収まらないし、制作者の権利侵害の恐れはないにしても、レワニワ図書館の蔵書として少し変です。困っていたら、一つのアイデアが浮かびました。

この「続編」、シーンによっては場面としてどう成立させるかを詰めないまま進めました。シナリオの書き方はよく知らないのですが、それらしく各シーンに番号をふってあって、中のいくつかはラフの状態に留めています。たとえばシーン47では、重要な登場人物である少年少女(どちらも貴族の家系)が、シェイクスピアの芝居の稽古に出かけているのが家族にばれそうになったものの「何とか誤魔化す。二人は目配せして微笑む」と記しました。 続きを読む

シェイクスピアの歴史劇

物忘れや変な思い込みがひどくなったと言うと、前からそうだったと妻に返されます。主観的にはこの数年の変化なのですが。『ハムレット』は、福田恆存訳(新潮文庫)を繰り返し5回くらい読んだと記憶していました。ところが、カルデニオ-ハムレット論を書くために小田島雄志訳(白水Uブックス)を買い、初めて読んだ気でいたら、後で同じ本が書棚の結構目立つ場所にあるのを発見しました。付箋つきで。

野島秀勝訳(岩波文庫)も、やはり付箋つきで書棚に収まっていました。さすがに、同じ訳ばかり5回も読んだわけではなさそうです。しかし、福田恆存訳を何度か読み返したのも事実です。その都度、前に読んだ記憶が消えているのに驚いたことをよく覚えています。シェイクスピアの凄さを毎回新鮮な気持ちで味わえるので記憶力が悪いと得だ、と強がっていたものでした。

先日、福田恆存訳『リチャード三世』(新潮文庫)を買いました。これもすでに家にありました……積ん読でしたが。英国王の名を冠したシェイクスピア史劇は縁が遠かったのです。今回、松岡和子訳『ヘンリー四世』(ちくま文庫シェイクスピア全集31)をひもとくと既視感がありました。その源は山口昌男、高橋康也などの著作に出て来たフォールスタッフに関する記憶の残滓のようです。読んでみて、史劇を敬遠していた理由がわかりました。 続きを読む

続・再び恋に落ちたシェイクスピア

キメラ的な『再び恋に落ちたシェイクスピア』、ほぼ完成しました。何という徒労! 2週間かけて、400字詰め換算96枚。短めの中編小説一本分(シナリオの第1稿のような形で、ややラフに書かれています)。前回記したように、使い途は恐らくありません。でも、途中でやめようとは一度も思いませんでした。暇の産物には違いないのですが、この2週間、何ものかに追い立てられているようでした。

何ものか。ミューズみたいな立派な神様ではなさそうです。ジーニーくらいか? シェイクスピア大明神ではなおさら畏れ多く。『再び恋に……』に登場するのは、映画の登場人物であったところのシェイクスピアであり、だからこそ実在の人物の名を勝手に使っても「良心の呵責」など感じなかったのでしょう。

執筆の合間には、徒労感に浸されて嫌になることもありました。しかし、いざPCに向かうと書く快楽に突き動かされるようで、思い煩うことはなかったのです。主な材料は、自家製カルデニオ-ハムレット論(→PDF直リン)、『二重の欺瞞』、『恋に落ちたシェイクスピア』。この三者をどう組み合わせるか全くのノープランでした。一行のメモすらなし。しかし取りかかれば次々に展開や場面、人物が勝手に登場して、執筆が滞ることはありませんでした。生来、筆の遅い性なのに、なぜ一気呵成に書けたのでしょうか? 続きを読む

再び恋に落ちたシェイクスピア

困ったことになりました。「恋に落ちたシェイクスピア」の勝手に作る続編「再び恋に落ちたシェイクスピア」を書き始めたら、止まらなくなったのです。プロットにいくつか科白や場面の説明を加えてシナリオ風にし、ブログ1回分にするのが最初の心づもりでした。それが長くなりそうなので、レワニワ図書館に加えてもいいかなと思い始めたものの、全く予想外の展開で、書けば書くほど科白や場面が湧き上がって来ます。

400字詰め換算で既に40枚を超え、このままだと100枚までは行かずとも、それに近くなるでしょう。これほど書いてしまうと、たとえこの人跡稀なサイトの無料コンテンツとはいえ、誰にもアクセス可能なので、たとえばレワニワ図書館に配架することははばかられます。贋作のドン・キホーテ続編みたいなものです。映画の内容が核として存在しているからです。

一方で、私の創作物であることも間違いありません。カルデニオ-ハムレット説という私の独自の論が最重要の核心となっているからです。使い道のないキメラができつつあります。今更やめることもできません。筆の勢いというものがあります。いずれ書き始める予定の小説の予行演習にはなりますが……。以下、現在最も新しい部分をアップしておきます。前後のシーンなどの説明は省略。 続きを読む

レワニワ閲覧室に新蔵書

セルバンテス/シェイクスピア

レワニワ図書館の閲覧室に、新蔵書『シェイクスピアはドン・キホーテをどう読んだか?』を配架しました。「三田文学」2021年冬季号掲載の同題のエッセイを一部手直しし、特別付録として「カルデニオ-ハムレット化計画」を付け加えたものです。本文の概要は、前回の当ブログの他、「レワニワ瓦版」の2月15日付けの記事中にも載せてあります(改行を除けば同じものです)。

シェイクスピアの<二重の欺瞞-カルデニオの物語>問題についてはとりあえず終了、今後は英訳版を掲載する予定があるのみです。ただし、余録として勝手に妄想した『恋に落ちたシェイクスピア』の続編のプロット(再び恋に落ちたシェイクスピア?)を、そのうちに投稿しようかと考えています。

ドン・キホーテとセルバンテスについては、とりあえず休止とします。再開するとしても、恐らく何年か先になるでしょう。読んだ本については、これからも書きたいことが見つかった時に書きます。予告してあった風土記の補遺も必ずやるつもりです。ただ、嬉しいことに、先日、2月12日に突然小説を書く目途が立ったので、すぐに執筆に取りかかることはないものの、こちらに徐々に重点を移していこうと思います。いや、驚きました……小説については、また改めて記します。

イベリア半島と大ブリテン島の間に

思い出せないと前回記した「シェイクスピアはドン・キホーテをどう読んだか?」の補遺に関して、一つ記憶の底から甦って来たことがあります。シェイクスピアとドン・キホーテについて、なぜ「釈迦に説法」の誹りを免れない口出しをしているのか、書くつもりだったのでした。

私は厚かましいタイプではないと自認しています(それが厚かましい?)。一方で、変なことを思いついてしまい、そうなると黙っていられない面もあります。両方ともこのブログで発揮されている思いますが、後者が優勢かもしれません。しかし、いくら思いついたからといって、上記の問題に関して、英文学、西文学の諸先生が丁々発止のやりとりをしていたなら、その舞台にしゃしゃり出ることはなかったでしょう。

しかし、状況はそのようではなかったのです。スペイン側から「二重の欺瞞-カルデニオ」問題へのアプローチは多分ありません。シェイクスピアの真筆かどうかの争いなら管轄外ですし、セルバンテスやドン・キホーテの研究に資するものではないと考えるのは当然です。外野としては、首を突っ込んでくれたら楽しそうに思えるのですが、アカデミア内部の人はそうした外部的な事象には関心を示さないでしょう。 続きを読む

補遺は断念、英語版は進行中

The magic hour ?

スマホのGoogle Photoが、上の写真を表紙にThe magic hourと題する10枚ほどのスライドショーを勝手に作成していました。光の加減で空と雲がきれいに見えるタイミングを狙ってやたらと写真を撮っていたのは確かですが、こんなお節介を頼んだ覚えはありません。なのに、何が選ばれたのか気になって全部見てしまいました。巨大IT企業に脳内まで支配される未来はそう遠くないと感じました。怖いことです。

閑話休題。「三田文学」に掲載したエッセイ「シェイクスピアはドン・キホーテをどう読んだか?」について、補遺を書きたい気持ちがありました。送稿した直後は、原稿を短くするために削った箇所が惜しくてやる気満々だったのですが、先送りする内に熱意が薄れました。時間の経過だけが原因ではありません。

上記エッセイを書く前から、この英語版を作ろうと思って、その方策を考えていました。私は英訳ができないので、とある人に英訳者の紹介をお願いしたところ、快く引き受けてくれました。おかげで英訳者の目途が立ち、既に依頼をすませて英語版用に修正した原稿を渡してあります。3月末に翻訳ができる予定です。 続きを読む

ドン・キホーテよ、さらば? #70

 この章は少し長いです。大事なことなので、長さへの自制を若干緩めました。

世界文学史上の最重要の作家として、かつトルコとの海戦で片腕の自由を失った愛国者として、セルバンテスはスペインで聖人のような存在になった。このため、前回取り上げたアメリコ・カストロやF・M・ビリャヌエバらの所説は、スペインでは受け入れがたいものだったようだ。私は、ドン・キホーテの面白さの正体を追い求めて、作者セルバンテスに興味を持ち始めたところだったので、彼らの議論が正しいのかどうかも含めて関心を抱いた。

セルバンテスは、滅多なドラマの主人公ではかなわない起伏に富んだ人生を送った。ただ、人生の最後の十年ほどは執筆に専念し、妻や娘、姉や姪らの女性と同居し、割合穏やかな暮らしだったように見える。解説等には、その女性たちについて身持ちが悪く、男出入りが多かったと書かれている。ある時、家の前で刃傷沙汰が起こり、一家全員が牢に入れられて取り調べを受けたこともあった。何か腑に落ちない事件だが、特に追究しようとは思わなかった。

ところが、ビリャヌエバの論文を読んだところ、彼女らは「売春」を行っていたとあるではないか。売春といっても、比較的地位の高い層の男性を相手にするプロの愛人業のようなものだったらしいのだが、前述の刃傷沙汰も、一家が揃って取り調べを受けたという事態も、それが「家業」だったのであれば納得がいく。セルバンテスのアルジェリア虜囚の身代金は一家の女性たちが用意したとされ、そんな大金を女性の身で作れたというのは――。
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