キホーテ、カルデニオ、ハムレット(4)   #65

シェイクスピアはドン・キホーテをどう読んだのだろうか? 考えられていい問題だと思うが、私が知り得た範囲では、そうした研究が進んでいる気配はない。英文学とスペイン文学の間の溝に落っこちてしまったのかもしれない。この課題を検討するために、まずは「カルデニオの物語」当時のシェイクスピアの状況を簡単にみておこう。

劇作では、1610年頃に書かれた「テンペスト」が最後の単独作品で、後の三作は共作となる。私生活では故郷での不動産投資に成功、シェイクスピアは金持ちになっていた。演劇の第一線から、また中心地ロンドンからも退こうとしている。内心を知る由はないが、未練たらしく演劇世界に留まるつもりはなかったらしい。芸術に人生をかける――そうした芸術家像はまだ知られていない。

シェイクスピアと幾人もの共作者との関係について、記録はあまり残っていないようだ。失われた「カルデニオの物語」については尚更。当時英国でも評判のドン・キホーテから、特にカルデニオのエピソードが選ばれた理由について、二組の男女の関係が裏切りを介して変化しハッピーエンドで終わるプロットがシェイクスピアの好むところだったから、とする説がある。 続きを読む

キホーテ、カルデニオ、ハムレット(3)   #64

セルバンテスのカルデニオとシェイクスピアのハムレット、二人の登場人物の類似性について「近くにいた相手に手ひどく裏切られること、復讐の手前での逡巡、内省的な性質、最愛の女性の悲劇(ルシンダは式の最中ほとんど死にそうになる)、そして狂気」と#29に記した。しかし、最近もう一つの相似に気づいた。

二人とも、裏切りの陰謀によって遠方に追いやられた後、「手紙」を読んで真相を知り、故地に舞い戻るという経験をするのだ。ありがちな筋ではあるが、ここまで共通点が多いとは……。となると、類似性の指摘がないことがむしろ不思議に思えて来る。唯一、これも最近、「哀れなカルデニオはスペインのハムレットであるかのようになすすimpotentlyべもなく復讐を探し求める」(劇評家Michael Billington。私訳)と新オックスフォード版全集「二重の欺瞞」冒頭の評言抜粋集にあるのを発見したが、明らかに揶揄するニュアンスだ。

研究者たちは、こうした類似を学問的には無意味として取り上げないのかもしれない。しかし、気づいていないだけという可能性もある。こんな例を知っているからだ。#28でカルデニオとキホーテの相似性について書いたが、作品内で重要な意味を持つこの要素への言及が、たとえば『ドン・キホーテ事典』のカルデニオの項目にもない。恐らく事典が編集された時点(2006年)では指摘されたことがなく、つまるところカルデニオは研究者たちの論点ではなかったと推量される。 続きを読む

キホーテ、カルデニオ、ハムレット(2)  #63

国会図書館に遠隔複写を依頼していた太田一昭九州大学名誉教授の論文「『二重の欺瞞』の作者同定と文体統計解析」が届いて読むことができた。結果、カルデニオとハムレットの間に縁戚関係を見つける意義に確信を深めた一方で、「立論」の方向性は変えることにした。

つまり、(1)にあげたゲイリー・テイラーらによる著書中の論文に依拠し、それをカルデニオ-ハムレット説の骨組みとして論述しようと考えていたのだが、この計画は捨て、文献から得た知見を活かしながらも、それらは主に自説を補強する材料として使用することにした。

これら論者は、「二重の欺瞞」が、18世紀のシェイクスピア全集編纂者であるルイス・ティボルドによる偽作とみなされることが多かったのに対し、新史料の発見やコンピュータを活用した研究によって定説を覆し、シェイクスピア(とジョン・フレッチャーによる共同)の作品として、シェイクスピアの正典とされるアーデン版、新オックスフォード版(断片として収録)が出版されたのだった。 続きを読む

ハムレットとドン・キホーテ

ツルゲーネフが「ドン・キホーテは殆ど読み書きができません」と述べた件の続きです。猫の尻尾をつかんだつもりで「問題」をたぐり寄せてみたら、その正体はライオンと判明しました。本気で取り組む必要のあるテーマだったということですが、私の興味の対象から外れている上に、眼痛と頭痛も去りません。逃げます。逃げますが、行きがかり上、突如現れたライオンについてできるだけ簡略に記します。その後で、前回述べた「二つの可能性」に触れることにします。

昭和23年初版の岩波文庫『ドン・キホーテ正編(一)』には、スペイン語原典から初めて日本語訳を行った永田寛定氏による詳細な解説がついています。中でツルゲーネフの「ハムレットとドン・キホーテ」に触れていると知り、先日入手しました(昭和46年改訂版)。その「名高い講演」は解説の主要な話題の一つだったのですが、私がおかしいと感じたことについては、片言もありません。訳者の永田氏が気づかなかったはずはないのに、どういうことでしょうか?

永田氏の解説の主題は作者や主人公などの人物論であり(主人公=作者と強調されます)、作品と歴史や社会とのかかわりについてです。その点において、実は1860年にロシアで行われたツルゲーネフの演説と相似です。自己にとらわれていっかな行動しようとしないハムレットと、自らを顧みず「大義」のために生きるキホーテとの対比は、時も距離も言語も超え、戦後日本においても有効だったのです。それは民衆のために身を捨てる革命家と、内省の内に生きて傍観者となる知識人の比喩でもありました。 続きを読む

ツルゲーネフとドン・キホーテ

Shoko Teruyama ©2020

国会図書館の遠隔複写はすぐには届かないと思われるので、カルデニオとハムレットの続きは後回しにして、ドン・キホーテ補遺が終わってから書こうと思っていた内の一つを前倒しします。主に翻訳にまつわる話題です。材料はツルゲーネフの「ハムレットとドン・キホーテ」

ツルゲーネフは、高校の現代国語の教科書で「あいびき」を読み、文章そのものに感動するという初めての経験をした作家です。もちろん二葉亭四迷訳。手許にある新潮文庫版は昭和46年9月19刷。浪人生だった時に東京の書店で購入したもと思います。四迷「浮雲」は何がいいのかよく分かりませんでしたが、四迷訳ツルゲーネフの文章は今読んでも感じ入ってしまいます。

研究社シェイクスピア辞典にはツルゲーネフの項があります。ツルゲーネフが「ハムレットとドン・キホーテ」の中で、人間をドン・キホーテ型とハムレット型に二分したことが、一時期影響力を持った現れのようです。ツルゲーネフは、自己の信念に従い、無垢で無私のドン・キホーテを称揚する一方で、懐疑的でエゴイスティックだとしてハムレットを批判しました。 続きを読む

翻訳と葛藤

本文を一部訂正しました

コロナ禍の影響が、このブログのような片隅にまで及びました。『二重の欺瞞』について検索していたら、合作説を否定する日本の学者の論文があることが分かりました。これは『二重の欺瞞』偽作説に直結するものと思われます。中身を確かめるのに、普段なら国会図書館に行けば一日で片づくのですが、新型コロナの影響で休館中。

6月11日からは抽選で1日200人ずつ入れると開示されたものの、最初の申し込み締め切りはすでに過ぎていました。私のくじ運からすると当たるとは思えず……遠隔複写を申し込みました。これを読んでから#63を書くつもりです。今回は、#61で予告しながら後回しにしていた翻訳について語ることにします。

辞書を引き引き『青白い炎』を解読し、私の読解力が及ばないところは日本語訳を参照するので、ずーっと原文と訳文を行ったり来たりしていました。当然なかなか先に進みませんが、苦労してでも原文を読む方が楽しいと感じていました。 続きを読む

キホーテ、カルデニオ、ハムレット(1)  #62

シェイクスピアは、『ドン・キホーテ』の登場人物カルデニオにハムレットの面影を見いだしたのではないか? それが昨年1月に私の立てた問いだった(#29#33を参照)。答えを見つけようと、まずこの疑問に関わる著作や先行研究がないか捜した。吉田彩子先生(#33参照)にメールで文献を教えていただくなどして、スペインの側からの問いかけはないだろうという判断に至った。

では、イギリス側からはどうか? なさそう、というのが現時点での答えである。となると、カルデニオとハムレットを結びつけたのは、私の妄想なのだろうか? そうとも言えない、という結論にたどり着く探究の道行きについて、これから語りたい。私にとって、実にとんでもなく面白い旅だったのである。

シェイクスピアに関しては、汗牛が充棟したビルで大都市を形成されるくらい多くの文献・研究がある。そうした中、「カルデニオ」は研究の中心街からはやや遠いものの、それなりに人の出入りの多い一棟である。シェイクスピアの作品中「カルデニオの物語The History of Cardenio」は上演歴は確かだが、台本の残っていない「失われた劇ロスト・プレイ」であり、これを発見しようと追求・探究が長く行われて来たのである。まずそのことを私は知った。 続きを読む

自作について語ること


 サクランボ猫

3月末、ドン・キホーテと風土記の補遺を書くための準備が始められそうと書いたのですが(こちら)、前者について進展がありました。去年買っておいた本を読んだところ、一挙に視界がクリアになったのです。だったら、とっとと読んでおけよというところですが、英語版なので億劫だったのです。

コロナの現実から逃避しようと、ナボコフPale Fireに頑張って取り組んだおかげで横文字本への耐性が鍛えられ、ずいぶん楽に読めました(ブログの更新が途絶えるぐらいには集中し、眼痛も再発したわけですが)。研究系の本、さらに翻訳書(原書は仏語)であることも奏効したと思います(翻訳は原文より分かりやすくなるのが普通)。ただし、求めていた答えを得たということではありません。

ドン・キホーテを読んで推察したこと(こちらこちら)が、可能性として生きる余地があると判明したことが大きな成果でした。また、私がウダウダ、グダグダ考えたり、書いたりしていることは、専門家や学者が考えない方向で何かを見いだす時に意義があるのだと確信(再確認)できたことも収穫です。ただ、補遺執筆はもう少し「研究」を深めてからにします。今回の本編は、自作を語ることについて、『女神の肩こり』自作解説の続きにして最終回です。 続きを読む