ドン・キホーテ」タグアーカイブ

リアルで古風な物語群 模範小説集(4)

前回、樋口正義訳『セルバンテス模範小説集』解説の控えめなようで実は厳しい牛島信明氏批判にやや深入りしました。その余録で、牛島氏の提唱する小説集作品の分類がどうにも頭に入って来なかった理由を自分なりに理解し、記すことができたのは思わぬ収穫でした。もう少し続けます。牛島氏は岩波文庫版『セルバンテス短編集』(1988年)を編むに際し、自らのセルバンテス観に従って作品を選び、解説を書いています。一見当然のようですが、問題がありました。

この小説集は、文庫版出版後も「名ばかり聞こえてほとんど読まれることのない」状態が続きます。恐らく現在も。(1)で記したように、一般読者にとって牛島氏編の短編集は「模範小説集」に入門する際の躓きの石になり得ます。そもそも、ドン・キホーテから一部を抜き取って短編集に収めたこと自体、「模範小説集」の作品の価値が低いのではと邪推させる誘因になったはずです。私はそう思った覚えがあります。

解説で、「リンコネーテとコルタディーリョ」は過大評価されて来たと牛島氏は述べます。しかし翻訳がないので、日本人の読者は牛島氏の説の当否を判断できず、ただ拝聴するしかありません。氏はまた、「セルバンテス独特のさりげないユーモアとか、きびきびとした会話」については一読して瞭然だから、と触れません。ユーモアや会話の妙は作品の魅力となる一方、時代の変化を被りやすい性質を持ちます。出版当時400年前の作品の事実上唯一の翻訳だった刊本の解説としては不親切に思えます。 続きを読む

寂しい森の楽しい散歩 模範小説集(2)

樋口正義訳『セルバンテス模範小説集』を読んで気づいたことが、いくつかありました。まずは、ドン・キホーテはセルバンテスの作品の中でやはり傑出したものだということです。「模範小説集」は決してつまらなくはありませんが、ドン・キホーテの作者の作品でなければ、小説集が単独で日本語訳されるなどということはなく、セルバンテスはスペイン黄金世紀の群小作家の一人という扱いだったでしょう。

ドン・キホーテ前・後編でなされた飛躍はそれほど大きなものでした。飛躍とは、煎じ詰めると、キホーテというとんでもない「偉大な人物」を創造したこと、キホーテ、サンチョの主従という絶妙のコンビを発明したことになりそうです。

これを書く前、セルバンテス作の戯曲をいくつか読んでみました。すると、「模範小説集」でも同様だったのですが、次第に寂しい森をさまよっているような気分になって来ました。いくらページを繰っても、キホーテ主従ほどの魅力ある人物に出くわさないのです。そうした作品群は、ドン・キホーテという高峰の裾野に位置して、その高さを指し示してくれているかのようです。しかし、裾野の森を巡り歩くことにも楽しみはあります。 続きを読む

お知らせと空の写真

反薄明光線?

3月初め、レワニワ図書館の更新再開を宣言したものの、「女神の肩こり」をアップした後、事実上なにもしていません。カルデニオ問題が面白くなって、こちらに集中してしまったせいです(前にも書いたように、老化のせいか元々乏しかったマルチ・タスクの能力をほとんど失いました)。閲覧室の蔵書を増やそうと目論み、そのために横書き用のコンテンツを考えていたのですが、いざ始めようとしたら気が進みませんでした。

どうしたものか、まだ考えています。やめてしまう可能性もあります。一方、ブログで書く予定にしていたことは一段落したので、こちらの更新も間遠になりそうな気配です。「その本はなぜ面白いのか?」の続きとしては、風土記の補遺が残っていますが、これを書くには準備が必要なので、いつになるかわかりません。

一つ、訂正というほどでもないのですが、書いておきたいことがあります。「その本は……」の#28で、「カルデニオとキホーテとの類似は、私の発見のような気がしている」「『二人のキホーテ』という見方は、かつて大きな論点として浮上したことはなかったと考えていい」と記しました。その後、#64でロジェ・シャルチエ及びテイラー&ナンスが、それぞれカルデニオをキホーテの分身ととらえていることを明らかにしました。

先日、吉田彩子先生に問い合わせて、スペインでもカルデニオをキホーテの分身として考察する研究が複数あることを教えていただきました。未読ですが(読むとしても英語の自動翻訳経由になります……残念)、どんな内容なのか楽しみです。それにしても、主人公の分身があまり注目を集めないというのは、理由のあることとはいえ、誰よりカルデニオにとって気の毒です。是非とも、シェイクスピアが「カルデニオの物語」で救ってくれていた……と信じましょう。

上掲の写真は、8月26日の夕暮れ、日没の空が美しかったのでスマホで撮った中の1枚です。写真の右側に青い帯が見えますが、これは「反薄明光線」という珍しい現象のようです。MBC南日本放送のニュースサイトによれば、「湿度など条件が整って初めて見られる現象で、夏場の明け方、日の入り直後にたまに見られる」とのことです。

8月下旬から鹿児島や宮崎で、26日には全国各地で観測されてTBSのニュースにも取り上げられたようです。雨だらけで天候不順の7月の後、8月には酷暑が続き、それでも下旬になると空は秋の気配を宿して変化に富んでいます。で、このところ、やたらと雲の写真を撮っていて、上掲はその中の1枚です。なお、映り込んでいる住宅はプライバシーを考慮し画像処理を施しています。

トリュフの行方――カルデニオ問題、補遺の補遺

カルデニオ-ハムレット問題はブログでは終わったはずでしたが、2016年刊の本を追加で購入したら(本文124ページなのに送料・税金込み約4000円!)示唆に富んでいたので、メモを残します。Deborah C.Payne(編著)、Revisiting Shakespeare’s Lost Play : Cardenio/Double Falsehood in the Eighteenth Century Palgrave Macmillan。

巻頭に置かれたロバート・D・ヒューム教授(ペンシルベニア州立大学)の「『カルデニオ』/『二重の欺瞞』問題の評価assesment」では、梗概に「二重の欺瞞」に「混じり気なしのシェイクスピアは殆どあるい全く含まれない」とあって、私の説にとってまずそうだと危惧しましたが、全文を読んだら大丈夫でした。私のカルデニオ-ハムレット説では、純粋無垢のシェイクスピアの証拠がなくても困りません。あれば素晴らしいのですが。

一方でティボルド偽作説は明確に否定しており、ティボルドが17世紀後半の何らか原稿を元に作業したのは事実だろうと記しています。同書の別の著者は、シェイクスピア作かどうかはともかく、ジェイムス王朝時代(17世紀初頭)の劇風が残存していると述べます。こちらの意見は少々困ります。シェイクスピアが作者(の一人)でないと、イギリスとスペインの二人の文学的巨人の出会いが実現しません。 続きを読む

ロシアのハムレット、「青白い炎」の翻訳

オリジナルのミニと翻訳(超訳?)されたミニ

さすがに夢ではありませんでした。「ハムレットとドン・キホーテ」の回に「ロシアでのハムレットの最初期の翻訳では、ハムレットとオフェリアが結ばれるハッピーエンドに改変され……訳者は劇作者で」とした記述の元が見つけられなくなり、夢か妄想かと心配になったのでした。「元」は不明のままですが、ロシアのハムレットについて根拠となる論文を発見しました。

柳富子氏によれば、ロシアでハムレットを最初に紹介したのは18世紀の悲劇作家スマローロフでした。しかし内容は大きく変更されていて、ハムレットはオフィーリアと共に最後まで死にません。柳氏の論文には記述がないのですが、岡部匠一氏は、二人が最後に「幸せにwedded happily結婚した」と書いています(英語論文)。

スマローロフの「ハムレット」はシェイクスピア作のクレジット抜きで発表され、原作者を見破られると、一部が似ているだけだと模倣を否定したそうです。柳氏は劇の概略を記しています。ハムレットは内省をせず、周囲の状況で復讐を先延ばしにするようです。結末では、反逆した娘オフェリアをその父が殺す寸前、ハムレットらが処刑場になだれ込み、父を成敗しようとすると、娘は父の命を取るなら私を殺してからにして、と……。 続きを読む

キホーテ、カルデニオ、ハムレット(5)結論  #66

シェイクスピアは、ドン・キホーテのカルデニオを「二重の欺瞞」のフリオに取り替えたりしない。ハムレットの作者の目に、復讐の企図と実行の合間から逃げ出して内省する半狂人と、直情的に修羅場に躍り出てしまう考えのない若者が同じに見えるはずはないのだ。近代以前のヨーロッパ人が内省をしなかったわけではないだろう。内省という精神的な営為がまだ認識されていなかったのだ。

そうした人々にとってカルデニオは理解し難く、フリオは受け入れられやすい。その上、単純な青年は劇をスペクタクル化する。セルバンテスの原作にしたがって、緊迫した結婚式の場面が活劇でなく主人公の独白に続くとしたら、観衆は喜ばないだろう。絶頂期のシェイクスピアがハムレットのような素晴らしい独白を書くのでなければ。この改変は、誰が行ったのか?

前回述べたように、「二重の欺瞞」のプレゼンターであるルイス・ティボルトによれば、1613年初演の「カルデニオの物語」は17世紀後半に改変されている。タイトルと登場人物の名前の変更という、もし偽作者であれば下策と思えることをティボルドがしたのか否か考えるなら(普通はしない)、本当にその時期に改変が行われ、ティボルドが引き継いだ可能性は残る。 続きを読む

キホーテ、カルデニオ、ハムレット(4)   #65

シェイクスピアはドン・キホーテをどう読んだのだろうか? 考えられていい問題だと思うが、私が知り得た範囲では、そうした研究が進んでいる気配はない。英文学とスペイン文学の間の溝に落っこちてしまったのかもしれない。この課題を検討するために、まずは「カルデニオの物語」当時のシェイクスピアの状況を簡単にみておこう。

劇作では、1610年頃に書かれた「テンペスト」が最後の単独作品で、後の三作は共作となる。私生活では故郷での不動産投資に成功、シェイクスピアは金持ちになっていた。演劇の第一線から、また中心地ロンドンからも退こうとしている。内心を知る由はないが、未練たらしく演劇世界に留まるつもりはなかったらしい。芸術に人生をかける――そうした芸術家像はまだ知られていない。

シェイクスピアと幾人もの共作者との関係について、記録はあまり残っていないようだ。失われた「カルデニオの物語」については尚更。当時英国でも評判のドン・キホーテから、特にカルデニオのエピソードが選ばれた理由について、二組の男女の関係が裏切りを介して変化しハッピーエンドで終わるプロットがシェイクスピアの好むところだったから、とする説がある。 続きを読む

キホーテ、カルデニオ、ハムレット(3)   #64

セルバンテスのカルデニオとシェイクスピアのハムレット、二人の登場人物の類似性について「近くにいた相手に手ひどく裏切られること、復讐の手前での逡巡、内省的な性質、最愛の女性の悲劇(ルシンダは式の最中ほとんど死にそうになる)、そして狂気」と#29に記した。しかし、最近もう一つの相似に気づいた。

二人とも、裏切りの陰謀によって遠方に追いやられた後、「手紙」を読んで真相を知り、故地に舞い戻るという経験をするのだ。ありがちな筋ではあるが、ここまで共通点が多いとは……。となると、類似性の指摘がないことがむしろ不思議に思えて来る。唯一、これも最近、「哀れなカルデニオはスペインのハムレットであるかのようになすすimpotentlyべもなく復讐を探し求める」(劇評家Michael Billington。私訳)と新オックスフォード版全集「二重の欺瞞」冒頭の評言抜粋集にあるのを発見したが、明らかに揶揄するニュアンスだ。

研究者たちは、こうした類似を学問的には無意味として取り上げないのかもしれない。しかし、気づいていないだけという可能性もある。こんな例を知っているからだ。#28でカルデニオとキホーテの相似性について書いたが、作品内で重要な意味を持つこの要素への言及が、たとえば『ドン・キホーテ事典』のカルデニオの項目にもない。恐らく事典が編集された時点(2006年)では指摘されたことがなく、つまるところカルデニオは研究者たちの論点ではなかったと推量される。 続きを読む