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またもドン・キホーテに出会う

 ドン・キホーテに「さらば」と挨拶(#70)し、そのすぐ後に1回だけ「再見」して補注を書いてから、いつの間にか1年以上が過ぎていました。ずっと探し続けていたドン・キホーテの面白さの謎について、アメリコ・カストロという鍵となる学者を見つけたものの、スペイン語ができず、さりとて翻訳書の文章は私にはとても読めないので、断念せざるを得なかったのです。しかし、事情が変わったと言えそうです。

 断念の六つ目の理由としてあげた頭痛と眼痛は、その後大幅に軽くなっていました(でなければ、noteの常陸国風土記現代語訳は不可能でした)。そして、知らなかったのですが、昨年暮れにカストロの主著が『スペインの歴史的現実』『スペイン人とは誰か』という2冊の邦訳として出版されていたのです。これを例の隣町の書店で発見し、各8000円ではすぐには買えず、読めるのか試そうと図書館で借りました。

 訳者は私が読めなかったカストロの他の本と同じ本田誠二氏です。しかし、両書は(苦労はしますが)読めます。そして内容は間違いなく興味深いのです。厚さからして図書館から借りてでは読み切れないので、『現実』を買いました。で、『誰か』をどうするか、悩んでいます。ここで本格的に読み始めると、せっかく取りかかるはずの小説が先延ばしになります。とりあえず揃えておいて、少しずつ読んで……。他にも、1万円超えの本が必要になりそうなのも辛いところです。 続きを読む

再び恋に落ちたシェイクスピア

困ったことになりました。「恋に落ちたシェイクスピア」の勝手に作る続編「再び恋に落ちたシェイクスピア」を書き始めたら、止まらなくなったのです。プロットにいくつか科白や場面の説明を加えてシナリオ風にし、ブログ1回分にするのが最初の心づもりでした。それが長くなりそうなので、レワニワ図書館に加えてもいいかなと思い始めたものの、全く予想外の展開で、書けば書くほど科白や場面が湧き上がって来ます。

400字詰め換算で既に40枚を超え、このままだと100枚までは行かずとも、それに近くなるでしょう。これほど書いてしまうと、たとえこの人跡稀なサイトの無料コンテンツとはいえ、誰にもアクセス可能なので、たとえばレワニワ図書館に配架することははばかられます。贋作のドン・キホーテ続編みたいなものです。映画の内容が核として存在しているからです。

一方で、私の創作物であることも間違いありません。カルデニオ-ハムレット説という私の独自の論が最重要の核心となっているからです。使い道のないキメラができつつあります。今更やめることもできません。筆の勢いというものがあります。いずれ書き始める予定の小説の予行演習にはなりますが……。以下、現在最も新しい部分をアップしておきます。前後のシーンなどの説明は省略。 続きを読む

イベリア半島と大ブリテン島の間に

思い出せないと前回記した「シェイクスピアはドン・キホーテをどう読んだか?」の補遺に関して、一つ記憶の底から甦って来たことがあります。シェイクスピアとドン・キホーテについて、なぜ「釈迦に説法」の誹りを免れない口出しをしているのか、書くつもりだったのでした。

私は厚かましいタイプではないと自認しています(それが厚かましい?)。一方で、変なことを思いついてしまい、そうなると黙っていられない面もあります。両方ともこのブログで発揮されている思いますが、後者が優勢かもしれません。しかし、いくら思いついたからといって、上記の問題に関して、英文学、西文学の諸先生が丁々発止のやりとりをしていたなら、その舞台にしゃしゃり出ることはなかったでしょう。

しかし、状況はそのようではなかったのです。スペイン側から「二重の欺瞞-カルデニオ」問題へのアプローチは多分ありません。シェイクスピアの真筆かどうかの争いなら管轄外ですし、セルバンテスやドン・キホーテの研究に資するものではないと考えるのは当然です。外野としては、首を突っ込んでくれたら楽しそうに思えるのですが、アカデミア内部の人はそうした外部的な事象には関心を示さないでしょう。 続きを読む

ドン・キホーテに再見?

さらば、と挨拶したのに、すぐに引き返して来ました。訂正すべき事項が見つかったのです。12月5日の投稿に「模範小説集」の邦訳刊本リストを掲載した際「この情報は、私の知る限り、これまで整理された形で示されたことがありません」と記しましたが、ありました。集英社文庫の「ポケットマスターピース」シリーズの『セルバンテス』の巻、三倉康博氏による「著作目録」で提示されていたのです。

同書には「模範小説集」から吉田彩子氏訳による3編が掲載されているので、これを足した改訂版リストを下に載せることにします。そんなことを考えていたら、私が勝手に6編を選んだ仮想文庫版『模範小説集』の帯につけるキャッチフレーズを思いつきました。「ドン・キホーテより面白い!

冒涜的な気もするので、「ドン・キホーテよりも面白い!?」とすべきか……でも、満更嘘でもありません。面白さの分かりにくいドン・キホーテより気に入る人がいても、不思議ではないと思います。ただし、ドン・キホーテを書かなかったら、「模範小説集」の作者の名を知る日本人はスペイン文学者以外いなかっただろうことは再確認しておきます。 続きを読む

ドン・キホーテよ、さらば? #70

 この章は少し長いです。大事なことなので、長さへの自制を若干緩めました。

世界文学史上の最重要の作家として、かつトルコとの海戦で片腕の自由を失った愛国者として、セルバンテスはスペインで聖人のような存在になった。このため、前回取り上げたアメリコ・カストロやF・M・ビリャヌエバらの所説は、スペインでは受け入れがたいものだったようだ。私は、ドン・キホーテの面白さの正体を追い求めて、作者セルバンテスに興味を持ち始めたところだったので、彼らの議論が正しいのかどうかも含めて関心を抱いた。

セルバンテスは、滅多なドラマの主人公ではかなわない起伏に富んだ人生を送った。ただ、人生の最後の十年ほどは執筆に専念し、妻や娘、姉や姪らの女性と同居し、割合穏やかな暮らしだったように見える。解説等には、その女性たちについて身持ちが悪く、男出入りが多かったと書かれている。ある時、家の前で刃傷沙汰が起こり、一家全員が牢に入れられて取り調べを受けたこともあった。何か腑に落ちない事件だが、特に追究しようとは思わなかった。

ところが、ビリャヌエバの論文を読んだところ、彼女らは「売春」を行っていたとあるではないか。売春といっても、比較的地位の高い層の男性を相手にするプロの愛人業のようなものだったらしいのだが、前述の刃傷沙汰も、一家が揃って取り調べを受けたという事態も、それが「家業」だったのであれば納得がいく。セルバンテスのアルジェリア虜囚の身代金は一家の女性たちが用意したとされ、そんな大金を女性の身で作れたというのは――。
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セルバンテスの「秘密」  #69

私の足が長い!

前回の続きで、「驚くべき一行」から始めようとしたのだが、頭の中で整理がつかない。前回の更新後、気分が急降下して悩みこんだような状態に陥っていた。作者セルバンテスをめぐる探究を始めていいものか、それが問題だ。やりがいはあるだろう。しかし、いくつか文献にあたって、そこに突っ込んだら泥沼だと分かった。

ブログの趣旨からすると突っ込むのが正解だ。けれど、そうしたら小説を書く機縁はさらに遠のく。……独り相撲を取っているのだから、私が決めればいいことであって悩む必要はないはずなのに、この問題で頭をいっぱいになり、寝ても覚めても思考が堂々巡りしている。

書きながら考えるとしよう。他に方法を知らない。私が驚いたのは、以下のF・M・ビリャヌエバの論文(出典は後述)の[注]に引かれていた文章だ。「ミゲル・デ・セルバンテスは実際に、当時のヨーロッパの詩人や劇作家たちには滅多にありえないような活動、つまりビジネスに関わる経済活動において、この種の職業経験を持った、われわれの黄金世紀における、唯一の重要な作家であった」(ルイス・ラロケ・アリェンデ) 続きを読む

作者セルバンテスの発見  #68

私は影の中にいます

予定を変更して、今回は「その本はなぜ面白いのか?」の続き#68とする。このブログは舵のない船のようにさまよい続けているのだが、時々(私にとって)目の覚めるような発見という椿事が起きる。実は「模範小説集」の続き(5)を半分近く書いており、なお牛島信明氏に焦点をあてるようなことになって、葛藤が生じていた。

批判ばかりしているみたいで、と一人勝手に悩みつつ関連の文献を読んでいたら、突然もやが晴れて……いや、そうではない、もやの中にいるのは変わらないのだけれど、辺りが突然明るくなったのである(旧約聖書の時のもやが晴れる「発見」とは違う事態のようだ)。その後、いい湯加減のお風呂につかっているみたいなほんわかした気分になり、二日ほど何も書けなかった。その間、見たわけではないが、私はにやついていたと思う。

何が起こったのかうまく摑めていない。すごく単純な事態であるようにも思える。いま思いついたままに記せば、私はセルバンテスを発見したのかもしれない。斬新なセルバンテス像を見出したとか、そんな立派な話ではない。専らドン・キホーテに興味があったはずなのに、セルバンテスという作者が突然私の頭の中に入り込んで来たのである。それは、なぜドン・キホーテは面白いのか、なぜ面白さが謎であるのか、というブログのそもそもの問題意識と直かに結びついている。 続きを読む

リアルで古風な物語群 模範小説集(4)

前回、樋口正義訳『セルバンテス模範小説集』解説の控えめなようで実は厳しい牛島信明氏批判にやや深入りしました。その余録で、牛島氏の提唱する小説集作品の分類がどうにも頭に入って来なかった理由を自分なりに理解し、記すことができたのは思わぬ収穫でした。もう少し続けます。牛島氏は岩波文庫版『セルバンテス短編集』(1988年)を編むに際し、自らのセルバンテス観に従って作品を選び、解説を書いています。一見当然のようですが、問題がありました。

この小説集は、文庫版出版後も「名ばかり聞こえてほとんど読まれることのない」状態が続きます。恐らく現在も。(1)で記したように、一般読者にとって牛島氏編の短編集は「模範小説集」に入門する際の躓きの石になり得ます。そもそも、ドン・キホーテから一部を抜き取って短編集に収めたこと自体、「模範小説集」の作品の価値が低いのではと邪推させる誘因になったはずです。私はそう思った覚えがあります。

解説で、「リンコネーテとコルタディーリョ」は過大評価されて来たと牛島氏は述べます。しかし翻訳がないので、日本人の読者は牛島氏の説の当否を判断できず、ただ拝聴するしかありません。氏はまた、「セルバンテス独特のさりげないユーモアとか、きびきびとした会話」については一読して瞭然だから、と触れません。ユーモアや会話の妙は作品の魅力となる一方、時代の変化を被りやすい性質を持ちます。出版当時400年前の作品の事実上唯一の翻訳だった刊本の解説としては不親切に思えます。 続きを読む